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2009年1月25日 (日)

西遊伝 Part5-6

自分用のお土産。

本場のコニャックとカマンベールチーズを持ってきますた。
おやつにマカロンとモン・サン・ミッシェル名物のクッキー。
1950
●豆知識
ワインを造る行程から更にアルコール度数を高めたのがコニャック。
これがイギリスに渡って“ブランデー”と呼ばれたわけですが。

・・・ロシア人が呑んで、酔っ払って踊ったのが「コニャックダンス」
更にニューヨークに渡って、これを呑んで怒ったひとりの刑事。
・・・そう! ニューヨーク怒りの用心棒“刑事コニャック”!!!

日本では、つまみには“コンニャク”が、定番です。


           じゃ、さいなら~!  A bientot !

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西遊伝 Part5-5

新潟の海岸線。

・・・着陸態勢に入る。   もうすぐ会える。
1949

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西遊伝 Part5-4

1945 さいなら、パリ!
今度来る時は世界征服の途中で寄るからなぁ!

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西遊伝 Part5-3

これでやっと、プレの皆さん。ぼん、しゃなに会える!
今、いぐどー!
1944

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西遊伝 Part5-2

さて、空港の免税店で最後のお買い物でもしとこか。

え~と、ナニナニ?
『免税店の *すべての項目 買って 日本に 持っていことができる』

ほぅ。意味は全く分らんが、大した自信だ。1943

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西遊伝 Part5-1

11/29日。シャルル・ド・ゴール空港。
パリ発13:15 エールフランス航空276便。
・・・日本へ。
1942

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西遊伝 Part4-18

ラファイエットグルメメンズ館。
ここのイルミネーションも飽きなかった。

夜の外気はキーンと冷えて、東北人の自分にはとても気持ち良いし。

手を息で温めながら「綺麗ね!」とか言って寄り添う恋人が横に居れば、その場所はとても暖かいだろう。・・なんちゃって。
1941 さて、。。。帰ろ。 明日は日本に帰る。

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西遊伝 Part4-17

さて、ホテルへ戻るか。。。


夜のオペラ・ガルニエ。
どの角度から見上げても飽きない。・・・美しい。1937

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西遊伝 Part4-16

エッフェル塔を遮るものは何1936 も無い。・・・綺麗だ。

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西遊伝 Part4-15

凱旋門から見下ろすシャンゼリゼ通り。1935

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西遊伝 Part4-14

夜の凱旋門に登り、そこからパリを見下ろしてやろうかと思った。
7ユーロ払って凱旋門の屋上に・・・。
登るのは階段で。なかなか息が切れるほどにキツい。1934

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西遊伝 Part4-13

クリスマスの時期、シャンゼリ1933 ゼ通りは煌びやかにライトアップされる。

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西遊伝 Part4-12

パリ市内に戻ると、エッフェル塔のイルミネーションが出迎えてくれた。

これからパリの夜をまた散歩しようと思う。
1932

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西遊伝 Part4-11

さて、そろそろパリに戻る時間だ。
また帰りも4時間コース。パリに着く頃には20:00時だな。

1922

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西遊伝 Part4-10

主要部はゴシック様式だが、内部はさまざまな中世の建築方式が混ざり合って構成されている。教会堂はカロリング期の様式で、身廊はノルマン様式(11~12世紀)、百年戦争後の1421年に破壊されたロマネスク様式の内陣はフランボワイアン・ゴシック様式(15世紀半ば~16世紀初頭)として再建された。これら周囲を13世紀の重層構造の修道院建築と13~15世紀の軍事施設が取り囲んでいる。ゴシック・リヴァイヴァル建築の鐘楼と尖塔は1897年に完成し、その上に奉られた剣と秤を持つ金のミカエル像は彫刻家エマニュエル・フレミエによって製作された。深層部からは、岩山の上に幾層にもわたり建造され続けた建築遺構も残る。1921

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西遊伝 Part4-9

今でも年に数度は、この前の海が満潮と化し、孤島になるらしいですよ。

んー!良いカットだ。
流石は写真家、吟水君。1920

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西遊伝 Part4-8

んん!流石に世界遺産の風格が有1918 る。

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西遊伝 Part4-7

・・・別に美味いランチでもな1917 かったけど、腹ごしらえをして さて、登りますよ~!

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西遊伝 Part4-6

ここの名物は、このオムレツらしいんで頼んでみたけど。
・・・別に美味いもんじゃない。1916

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西遊伝 Part4-5

前に置いてあるお酒は、リンゴ酒。
・・・フランスと言えばワインなんですが、ここまで北に上がると流石にぶどうの栽培には適さず、昔からこの辺では“リンゴ酒”という事になります。
アルコール度数は・・・4度くらいかな?かなり軽いんだけど、醸造方法はワインと殆ど変わりません。1915

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西遊伝 Part4-4

一歩中へ入ると、こんな感じ。みやげ物やとかレストランが立ち並ぶ。
そうだなぁ。。。あ、“江ノ島”の感じを思1912 い描いて頂ければ。・・・あんな感じっス。

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西遊伝 Part4-3

1910 この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。再び同じ夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。966年にはノルマンディー公リチャード1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。

百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミッシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。

18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用されたが、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有数の観光地となっている。

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西遊伝 Part4-2

1908 ノルマンディを抜け、ブルターニュに入るとほら!かすかに見えて来ました。

モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)とはフランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に築かれた修道院である。カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。

ノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた。島の入口には潮の干満時刻を示した表示があり、満潮時には浜に降りないようにと記されている。最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後といわれており、引き潮により沖合い18kmまで引いた潮が、猛烈な速度で押し寄せる。このためかつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン=ミシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあった。

1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまった。急速な陸地化が島の周囲で進行しており、島の間際まで潮がくることは滅多になくなりつつある。かつての姿を取り戻すべく2009年には地続きの道路が取り壊され、2010年には代替となる新たな橋がかけられることが計画されている。

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西遊伝 Part4-1

1907 27日。
今日は旅のハイライト、『モン・サン・ミッシェル』へ向う。フランスの田舎の風景も観たかった。
オプショナル・ツアーへ26,000円を支払い、一路フランスの最果てまで。
パリからモン・サン・ミッシェルまではおよそ400km。
400kmと言うと、東京から仙台辺りの距離になるかな。
写真の様な風景が、延々4時間以上も続く、それはのどかな風景であった。

ここはノルマンディ地方。
かつてこの地はイギリスの領土であったり、ナチスドイツに占領されたり、昔から戦争の話題に事欠かない。
なんせ、ドーバー海峡なんて泳いで渡れる近さなんだからそれも納得出来る。

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■ノルマンディー上陸作戦■

第二次世界大戦中の1944年6月6日に行われたオーバーロード(大君主)作戦を指す。ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦。最終的に、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸した。史上最大の上陸作戦であり、作戦から60年が過ぎた現在までこれを超える規模の上陸作戦は行われていない。

本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空爆と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により二ヶ月以上要した。

ノルマンディー上陸作戦は今日まで第二次世界大戦中の最もよく知られる戦いの一つとして数えられる。「D-DAY」は作戦決行日を表し、現在では作戦開始当日の1944年6月6日を意味する用語として使われる。

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2009年1月17日 (土)

西遊伝 Part3-28

いやぁ~~~~軽く酔っ払っちまったな! 疲れてるからなぁ。
ホテル帰って寝よ!
・・・あ?
「おい、バカ!いくらなんでも凍死しちまうぞ、コラ!」

1904 明日、27日は世界遺産 西洋の驚異「モンサンミッシェルへの旅」

乞うご期待!

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西遊伝 Part3-27

気がつくと、日本風食堂 パリっ子に大人気!
ご覧の有様。

1900 しかし・・・パリジェンヌって、ほんと、可愛いよ。
世界中旅したけど、オーストラリアの娘も可愛かった。
韓国の女性も綺麗。(・・・整形してるからな。)

・・・最悪だったのが、。。。香港。 ありゃひで~わ。

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西遊伝 Part3-26

流石に腹減った~ (@@;

ラーメン喰いてぇな。。。

ってんで飛び込んだラーメン屋。
この頼んだメニュー、ペロリと喰っちまった。1898
「三ツ星レストランなんかより、よほど うめぇ~~~!」

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西遊伝 Part3-25

37)サン・ドニ門


降参!1897
今日はこの辺で勘弁してやらぁ!

これで、パリ市内の名所はほぼ網羅したハズだ。
俺様の脚力にかかっちゃ、パリなんざたった2日で征服よ!
さしものナポレオンも、俺様だけには敵うまい。 ざまぁ!

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西遊伝 Part3-24

36)サン・マルタン門1896

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西遊伝 Part3-23

35)レビュブリック広場

・・・この辺まで来ると、流石に右足の激痛に耐え兼ねた。
左足に重心かけて何とか歩ける状態。
既に10時間、歩きっぱなし。

つーか、すげーだろ?トップセールスマンの黄金の足は。1895

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西遊伝 Part3-22

34)オペラ・バスティーユ1893

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西遊伝 Part3-21

33)サン・ポール・サン・ル1892 イ教会

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西遊伝 Part3-20

32)パリ市庁舎
1891
豪華だねぇ~。
・・・松戸市役所も、こんだけ豪華なら良いんだけど。。。
あ、いや、こんなに豪華な庁舎なら、日本人だったら住民税なんざ払いたくもなくなるか。

あ、でも言っとくけど、フランスの税金は高いよぉ~。
世界を知ると、“日本の市民なんて、まだ甘やかされてんのに好きな事だけは勝手に言うよな”って思うよ。
でも、消費税値上げ反対~!

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西遊伝 Part3-19

パリ市立劇場前。1890

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西遊伝 Part3-18

シテ島からまた、市内中心部へ戻る1889

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西遊伝 Part3-17

31)ソルボンヌ大学1887

「よぉ!青年、そのお辞儀の作法間違ってるぞ!言っとくけど」。

ソルボンヌ大学は、俺でも入学出来たハズ。いや、マジで。
高校卒業程度の証明書があれば、この大学は世界からの入学は拒否しないハズ。(確か)
ま、フランス語が堪能な方なら、どうですか?今からでも。
でも、入るのは簡単でも、出れるかど~かは保証しませんがね。  ギャハハ!

この前を通り掛った時、たばこを一本口に銜えたら、すかさず青年が寄ってきて「たばこ下さい!」だと。
“Oui ! D'accord."・・・そう笑顔で答えながら、すかさず日本語で「ほら、この乞食学生!一本恵んでやるよ!」
・・・例によって、日本語で言っても相手には通じないんだからさ。  プギャ~~~。

そう言えば、市内を歩いてたら2度程、毛唐から英語で道を尋ねられたんだ。ありゃたぶんイギリス人だと思うんだが。
“Sorry I am a traveler" っつーか!この俺がいくら西洋人の如しな気品を兼ね備えてるてるからって、見るからに日本人だろが、タコ!
まぁ、道を尋ねたくなる様な、親しみやすそうな優しいマスクだからなぁ、俺様は。。。しょ~がねぇか。   (^.^)y-゜゜゜

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西遊伝 Part3-16

おわ!ギャァアアア~~~~~~~ああああああああ!!!

なんちゃってー!  (・。・)y-゜゜゜
1883 面白がって写真撮ってたら、たまたま巡回してた警備員に
「フラッシッ焚くんぢゃねー!」って怒られた。

「はぁ? うっせ!このフニャチン野郎!」
・・・ま、日本語で何言っても、どーせ通じないんだから、めたくそ言ってやった。   ギャハハ!

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西遊伝 Part3-15

螺旋階段を延々と降り、死の世界へ。。。地下に降り立ち、こんな薄暗い通路を、延々10分は歩く。
途中からそれは巨大な迷路状態となるんだが・・・。
何でも、地元のバカヤンキーが、夜中に肝試しよろしく侵入して、11年後に白骨化した状態で見つかったんだとか。
1882 怖っ!!!   ・・・つーか、アホか!

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西遊伝 Part3-14

26日、PM

可愛いパリジェンヌが「ここよ!」と指差したのがこれ。“カタコンブ”
え~~~???コレが入り口かよ。
こんなとこに有るんじゃ、そりゃわかんねーよな。看板も出てないんだから。
「メルシー!」そう笑顔でお礼をして、パリジェンヌと別れる。
1878


30)カタコンブ

パリの地下に広がっているカタコンブ(カタコンベ)いわゆる地下墓地には、600万人分もの人骨が眠っており、パリの観光名所のひとつにもなっている(入場料7ユーロ)。

パリのカタコンブの歴史は以外に新しい。今から約200年程前、パリ市街の拡大に伴い人口の増加から不足した墓地の対策が早急に求められていた。
墓場が飽和状態となって、市内にはその辺に放置された腐乱した死体から腐敗臭がたちこめて、それはそれは酷いものだったらしい。
当時の市長の号令で共同墓地から骨を発掘し当時の石切り場に骨を移した事がカタコンブの起源となる。
1786年から1814年までの約100年間に町のさまざまな教会から骨約600万体集められた。
地下道には整然とおびただしい数の骨が積まれている。
心臓の弱い方の見学は進められない。
額に剣による創傷の跡のあるもの、陥没したもの、これも人間?と思えるいびつなものまで。

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2009年1月 1日 (木)

西遊伝 Part3-13

1876 この辺までがAMの行程かな。
さて、次は本日のメイン 「カタコンブ」
・・・地図を見ながら歩いてんだが、カタコンブが見当たらね~。

しかし・・・へへ。俺様のフランス語も、なかなか通じるもんだねぇ。
何せ、ここ2ケ月間で猛勉強したからな!

「Mademoiselle ! あ~、Excuse-moi,o'u est l'肩昆布?」
          ↑
よう!そこのオンナ!カタコンブはどこですか?

って、聞いてんだけどな!
・・・5人程のパリジェンヌに声を掛けたら、優しそうな最後のひとりが、現地まで道案内してくれる事になった。

よっしゃ!パリジェンヌのナンパ成功!
日本男児ウタマロ1号、行って来ます! ・・・しかしながら、この辺で右足の激痛もMAX。マジ痛てぇ

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西遊伝 Part3-12

パリの白バイ隊・・・つーか、白くねーなぁ。
おまけにオフローダーだし。

・・・速いのか?そのバイク。
自慢じゃねーが、日本の白バイ隊の方が、もっと貫禄あるぞ1875 、オイ!

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西遊伝 Part3-11

・・・おい、おめぇ! 俺よりデケェ顔してんぢゃねーよ!

左側に見えるのがパリの超高層ビル モンパルナスタワー。1874

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西遊伝 Part3-10

1873 29)リュクサンブール宮殿

サロモン・ド・ブロス設計のリュクサンブール公爵邸を、イタリアからフランス王室に嫁いできたマリー・ド・メディシス(ルイ13世の母)の居城として改築した。ニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュが手掛けた内装は、彼女が幼い頃過ごしたフィレンツェのメディチ家の居城、ピッティ宮殿をモチーフとしている。

マリーがフランス追放された後は、彼女の孫であるモンパンシエ公爵夫人や、プロヴァンス伯爵(後のルイ18世)が居住した。フランス革命末期には権力者たちがここを活躍の場としたほか、その後ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握した歴史的な舞台にもなった。

自由の女神像の原型が設置されている。

現在建物は元老院の議事堂として使用され、建物とその周辺は公園になっている。

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西遊伝 Part3-9

1872 28)パンテオン

ここにあの有名な、キューリー夫人が祀られている。

パリの5区、聖ジュヌヴィエーヴの丘に位置し、幅110メートル、奥行き84メートルのギリシア十字の平面に大ドームとコリント式の円柱を持つ新古典主義建築の作品。18世紀後半に、サント=ジュヌヴィエーヴ教会として建設され、後にフランスの偉人たちを祀る霊廟となった。パンテオンはギリシア語で、日本語では万神殿の意味。

パリの守護聖人、聖ジュヌヴィエーヴに献堂するため、1755年に教会堂の建築設計競技が行われた、「パリの国王の建築物の監督官」であったジャック・ジェルメン・スフロに設計を委託された。スフロは、ジャン・ロドルフ・ペロネと共に、ゴシック教会の構造を徹底的に解析し、石材の強度試験を行って、石造構造の軽快さ、洗練性を求めた。ドームの構造はロンドンのセント・ポール大聖堂や、パリの廃兵院を参考にした。

1755年に建設が始まった。1778年、ドームを支える主ピアに亀裂が見つかり、強度不足を指摘されたことから、スフロの死(1780年)の後、外壁に開けられた開口部は塞がれてしまった。1792年竣工。

しかしフランス革命期の国民議会によってフランスの偉人たちを祀る墓所として利用されることが決定された(1791年)。その後、ナポレオン及びナポレオン3世の時代以降、教会堂として使用された期間もあるが、1885年以降、三度偉人の墓所となり現在に至っている。

ギリシャ建築の純粋性を表現した初期新古典主義建築の傑作とされ、特に『建築試論』を著したマルク・アントワーヌ・ロジェは、この建築物を「完全なる建築のモデルでありフランス建築の真の傑作」と賞賛した。

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西遊伝 Part3-8

元、雑誌社のプロカメラマンでもあった吟水君は、流石に良い絵を撮るねぇ。

題名 『セーヌ川を走る船』1870

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西遊伝 Part3-7

1869 27)ノートルダム寺院

ほーら来た!この写真、教科書なんかで一度は見た事あるだろ?

ゴシック建築を代表する建物であり、ローマ・カトリック教会の大聖堂。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。

ファサードを装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年のヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。

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西遊伝 Part3-6

1867 26)コンシェルジュリー

かつての牢獄。もともとフィリップ4世の宮殿であったが、14世紀後半に牢獄として使われ始める。18世紀のフランス革命の際には、多くの王族、貴族などの旧体制派が収容された。フランス革命時はその牢獄に入るとかならず死刑になるというので「死の牢獄」とよばれた。そのなかの有名な一人が王妃マリー・アントワネットである。彼女がコンコルド広場で処刑される前2か月半ほど過ごした独房も現在、再現されている。

牢獄にしちゃ、美しい建物だわね。
ここに収容された王妃マリー・アントワネットには、贅を尽くした食事が与えられたが、子供と離れ離れにされて監禁され、死を待つだけの彼女は、数ヶ月で白髪となり、そのヤツレ様は、見るも無残だったのだとか。合掌。

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西遊伝 Part3-5

サンジュ橋を渡り、シテ島に入る。1866

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西遊伝 Part3-4

25)サン・ジャック塔1865

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西遊伝 Part3-3

24)ルーブル美術館

言わずと知れたここ。フランスの国立博物館である。

メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の1つであるとともに、アシュモリアン美術館(1683年)や、ドレスデン美術館(1744年)、バチカン美術館(1784年)と並んで、ヨーロッパで最も古い美術館の1つに数えられる。世界遺産パリのセーヌ河岸に包括登録されている。創立者はナポレオンの外交官であったヴィヴァン・ドゥノン。世界的に有名な絵画・彫刻を多数所蔵している。


ここはゆっくり観たかったんだけどさぁ。。。
無理。この中をじっくり観て歩いたら、たぶんここだけで3日はかかる。
・・・非常に悔やまれるが、断念。外から建物を眺めるだけで我慢する! ま、またいつか来りゃ良いし。

1862 何故これ程に世界中から美術品を集めてこれたのかと言うと、フランスには税金の代りに美術品で代納すればそれでもOK!
と、いう法制度があるかららしいんだな。
んん、なかなか上手い事を思いついたもんだな。

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西遊伝 Part3-2

朝のコンコルド広場。
今日のスタートはここから!1861

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西遊伝 Part3-1

26日、朝ー!
いや、流石にぐっすり寝ちまったな。

・・・旅行中、この時計が非常に重宝した。
この時計は海外旅行用に買っておいたもので、カシオの電波ソーラー。
時計の針は日本時間を示し、デジタル表示部分には世界の都市の現在時刻が表示される。
日本とパリは丁度8時間の差があるんだが、頭では分っていてもこんな寝ぼけた朝には、咄嗟に日本がAMなのかPMなのかわけわかんなくなるんだな。

・・・時計を眺めてると「あぁ、今頃ぼんは散歩してもらってんのかなぁ~?」とか、「プレの皆さんは寒い思いしてないかなぁ~」なんて事が頭を過る。

ベッドから起き上がって 「イテッ!」
あ~~~右足首に激痛が!!!  流石に昨日は歩き過ぎだべ。
しかし、ま。一度決めた事は完遂するのが俺様の信条!
残り半分。今日でパリの街を徒歩で制覇するぞ!1859

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