西遊伝 Part5-6
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この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。再び同じ夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。966年にはノルマンディー公リチャード1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。
百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミッシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。
18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用されたが、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有数の観光地となっている。
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ノルマンディを抜け、ブルターニュに入るとほら!かすかに見えて来ました。
モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)とはフランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に築かれた修道院である。カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。
ノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた。島の入口には潮の干満時刻を示した表示があり、満潮時には浜に降りないようにと記されている。最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後といわれており、引き潮により沖合い18kmまで引いた潮が、猛烈な速度で押し寄せる。このためかつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン=ミシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあった。
1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまった。急速な陸地化が島の周囲で進行しており、島の間際まで潮がくることは滅多になくなりつつある。かつての姿を取り戻すべく2009年には地続きの道路が取り壊され、2010年には代替となる新たな橋がかけられることが計画されている。
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27日。
今日は旅のハイライト、『モン・サン・ミッシェル』へ向う。フランスの田舎の風景も観たかった。
オプショナル・ツアーへ26,000円を支払い、一路フランスの最果てまで。
パリからモン・サン・ミッシェルまではおよそ400km。
400kmと言うと、東京から仙台辺りの距離になるかな。
写真の様な風景が、延々4時間以上も続く、それはのどかな風景であった。
ここはノルマンディ地方。
かつてこの地はイギリスの領土であったり、ナチスドイツに占領されたり、昔から戦争の話題に事欠かない。
なんせ、ドーバー海峡なんて泳いで渡れる近さなんだからそれも納得出来る。
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■ノルマンディー上陸作戦■
第二次世界大戦中の1944年6月6日に行われたオーバーロード(大君主)作戦を指す。ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦。最終的に、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸した。史上最大の上陸作戦であり、作戦から60年が過ぎた現在までこれを超える規模の上陸作戦は行われていない。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空爆と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により二ヶ月以上要した。
ノルマンディー上陸作戦は今日まで第二次世界大戦中の最もよく知られる戦いの一つとして数えられる。「D-DAY」は作戦決行日を表し、現在では作戦開始当日の1944年6月6日を意味する用語として使われる。
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31)ソルボンヌ大学
「よぉ!青年、そのお辞儀の作法間違ってるぞ!言っとくけど」。
ソルボンヌ大学は、俺でも入学出来たハズ。いや、マジで。
高校卒業程度の証明書があれば、この大学は世界からの入学は拒否しないハズ。(確か)
ま、フランス語が堪能な方なら、どうですか?今からでも。
でも、入るのは簡単でも、出れるかど~かは保証しませんがね。 ギャハハ!
この前を通り掛った時、たばこを一本口に銜えたら、すかさず青年が寄ってきて「たばこ下さい!」だと。
“Oui ! D'accord."・・・そう笑顔で答えながら、すかさず日本語で「ほら、この乞食学生!一本恵んでやるよ!」
・・・例によって、日本語で言っても相手には通じないんだからさ。 プギャ~~~。
そう言えば、市内を歩いてたら2度程、毛唐から英語で道を尋ねられたんだ。ありゃたぶんイギリス人だと思うんだが。
“Sorry I am a traveler" っつーか!この俺がいくら西洋人の如しな気品を兼ね備えてるてるからって、見るからに日本人だろが、タコ!
まぁ、道を尋ねたくなる様な、親しみやすそうな優しいマスクだからなぁ、俺様は。。。しょ~がねぇか。 (^.^)y-゜゜゜
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26日、PM
可愛いパリジェンヌが「ここよ!」と指差したのがこれ。“カタコンブ”
え~~~???コレが入り口かよ。
こんなとこに有るんじゃ、そりゃわかんねーよな。看板も出てないんだから。
「メルシー!」そう笑顔でお礼をして、パリジェンヌと別れる。
30)カタコンブ
パリの地下に広がっているカタコンブ(カタコンベ)いわゆる地下墓地には、600万人分もの人骨が眠っており、パリの観光名所のひとつにもなっている(入場料7ユーロ)。
パリのカタコンブの歴史は以外に新しい。今から約200年程前、パリ市街の拡大に伴い人口の増加から不足した墓地の対策が早急に求められていた。
墓場が飽和状態となって、市内にはその辺に放置された腐乱した死体から腐敗臭がたちこめて、それはそれは酷いものだったらしい。
当時の市長の号令で共同墓地から骨を発掘し当時の石切り場に骨を移した事がカタコンブの起源となる。
1786年から1814年までの約100年間に町のさまざまな教会から骨約600万体集められた。
地下道には整然とおびただしい数の骨が積まれている。
心臓の弱い方の見学は進められない。
額に剣による創傷の跡のあるもの、陥没したもの、これも人間?と思えるいびつなものまで。
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この辺までがAMの行程かな。
さて、次は本日のメイン 「カタコンブ」
・・・地図を見ながら歩いてんだが、カタコンブが見当たらね~。
しかし・・・へへ。俺様のフランス語も、なかなか通じるもんだねぇ。
何せ、ここ2ケ月間で猛勉強したからな!
「Mademoiselle ! あ~、Excuse-moi,o'u est l'肩昆布?」
↑
よう!そこのオンナ!カタコンブはどこですか?
って、聞いてんだけどな!
・・・5人程のパリジェンヌに声を掛けたら、優しそうな最後のひとりが、現地まで道案内してくれる事になった。
よっしゃ!パリジェンヌのナンパ成功!
日本男児ウタマロ1号、行って来ます! ・・・しかしながら、この辺で右足の激痛もMAX。マジ痛てぇ
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29)リュクサンブール宮殿
サロモン・ド・ブロス設計のリュクサンブール公爵邸を、イタリアからフランス王室に嫁いできたマリー・ド・メディシス(ルイ13世の母)の居城として改築した。ニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュが手掛けた内装は、彼女が幼い頃過ごしたフィレンツェのメディチ家の居城、ピッティ宮殿をモチーフとしている。
マリーがフランス追放された後は、彼女の孫であるモンパンシエ公爵夫人や、プロヴァンス伯爵(後のルイ18世)が居住した。フランス革命末期には権力者たちがここを活躍の場としたほか、その後ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握した歴史的な舞台にもなった。
自由の女神像の原型が設置されている。
現在建物は元老院の議事堂として使用され、建物とその周辺は公園になっている。
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28)パンテオン
ここにあの有名な、キューリー夫人が祀られている。
パリの5区、聖ジュヌヴィエーヴの丘に位置し、幅110メートル、奥行き84メートルのギリシア十字の平面に大ドームとコリント式の円柱を持つ新古典主義建築の作品。18世紀後半に、サント=ジュヌヴィエーヴ教会として建設され、後にフランスの偉人たちを祀る霊廟となった。パンテオンはギリシア語で、日本語では万神殿の意味。
パリの守護聖人、聖ジュヌヴィエーヴに献堂するため、1755年に教会堂の建築設計競技が行われた、「パリの国王の建築物の監督官」であったジャック・ジェルメン・スフロに設計を委託された。スフロは、ジャン・ロドルフ・ペロネと共に、ゴシック教会の構造を徹底的に解析し、石材の強度試験を行って、石造構造の軽快さ、洗練性を求めた。ドームの構造はロンドンのセント・ポール大聖堂や、パリの廃兵院を参考にした。
1755年に建設が始まった。1778年、ドームを支える主ピアに亀裂が見つかり、強度不足を指摘されたことから、スフロの死(1780年)の後、外壁に開けられた開口部は塞がれてしまった。1792年竣工。
しかしフランス革命期の国民議会によってフランスの偉人たちを祀る墓所として利用されることが決定された(1791年)。その後、ナポレオン及びナポレオン3世の時代以降、教会堂として使用された期間もあるが、1885年以降、三度偉人の墓所となり現在に至っている。
ギリシャ建築の純粋性を表現した初期新古典主義建築の傑作とされ、特に『建築試論』を著したマルク・アントワーヌ・ロジェは、この建築物を「完全なる建築のモデルでありフランス建築の真の傑作」と賞賛した。
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27)ノートルダム寺院
ほーら来た!この写真、教科書なんかで一度は見た事あるだろ?
ゴシック建築を代表する建物であり、ローマ・カトリック教会の大聖堂。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。
ファサードを装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年のヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。
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26)コンシェルジュリー
かつての牢獄。もともとフィリップ4世の宮殿であったが、14世紀後半に牢獄として使われ始める。18世紀のフランス革命の際には、多くの王族、貴族などの旧体制派が収容された。フランス革命時はその牢獄に入るとかならず死刑になるというので「死の牢獄」とよばれた。そのなかの有名な一人が王妃マリー・アントワネットである。彼女がコンコルド広場で処刑される前2か月半ほど過ごした独房も現在、再現されている。
牢獄にしちゃ、美しい建物だわね。
ここに収容された王妃マリー・アントワネットには、贅を尽くした食事が与えられたが、子供と離れ離れにされて監禁され、死を待つだけの彼女は、数ヶ月で白髪となり、そのヤツレ様は、見るも無残だったのだとか。合掌。
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24)ルーブル美術館
言わずと知れたここ。フランスの国立博物館である。
メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の1つであるとともに、アシュモリアン美術館(1683年)や、ドレスデン美術館(1744年)、バチカン美術館(1784年)と並んで、ヨーロッパで最も古い美術館の1つに数えられる。世界遺産パリのセーヌ河岸に包括登録されている。創立者はナポレオンの外交官であったヴィヴァン・ドゥノン。世界的に有名な絵画・彫刻を多数所蔵している。
ここはゆっくり観たかったんだけどさぁ。。。
無理。この中をじっくり観て歩いたら、たぶんここだけで3日はかかる。
・・・非常に悔やまれるが、断念。外から建物を眺めるだけで我慢する! ま、またいつか来りゃ良いし。
何故これ程に世界中から美術品を集めてこれたのかと言うと、フランスには税金の代りに美術品で代納すればそれでもOK!
と、いう法制度があるかららしいんだな。
んん、なかなか上手い事を思いついたもんだな。
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26日、朝ー!
いや、流石にぐっすり寝ちまったな。
・・・旅行中、この時計が非常に重宝した。
この時計は海外旅行用に買っておいたもので、カシオの電波ソーラー。
時計の針は日本時間を示し、デジタル表示部分には世界の都市の現在時刻が表示される。
日本とパリは丁度8時間の差があるんだが、頭では分っていてもこんな寝ぼけた朝には、咄嗟に日本がAMなのかPMなのかわけわかんなくなるんだな。
・・・時計を眺めてると「あぁ、今頃ぼんは散歩してもらってんのかなぁ~?」とか、「プレの皆さんは寒い思いしてないかなぁ~」なんて事が頭を過る。
ベッドから起き上がって 「イテッ!」
あ~~~右足首に激痛が!!! 流石に昨日は歩き過ぎだべ。
しかし、ま。一度決めた事は完遂するのが俺様の信条!
残り半分。今日でパリの街を徒歩で制覇するぞ!
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