2018年1月27日 (土)

天孫降臨

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=YEmdkGkTlOA

天孫降臨 』 という神話自体、何かを正当化して居るプロパガンダにしか思えないんですけどね。

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当時、山陰には日本の王である“長髄彦”が居ました。その兄、安日彦が、私のルーツである安倍一族の始祖なのですが。

ちょっと短絡的ですが、・・・私の感性から結論から先に申しますと、卑弥呼が長髄彦の妃だったとしたら・・・如何でしょうか? すると、天皇家の始祖である天照大神=卑弥呼は、渡来人では無かったという事に成ります。其処に、神武天皇と呼ばれる一派が襲来したとしたら? そうすると、・・・日本の稲作文化=弥生時代は、既に日本に根付いて居り、その文化を強奪しようとしたのが神武天皇だとすれば? ・・・何も絵空事ではありませんよね?

“神武天皇”と呼ばれる一派は大和朝廷に侵攻し、長髄彦の妃である卑弥呼さえ我がものにしたんですよ。

大和”を逃れた安日彦は、北の蝦夷の大地に逃れ、北方の種族を束ねる為、神道の根幹と成る“アラハバキ神”を擁立し、新たなる新国家、『 日本 』 を樹立した。

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根拠ですか?

皇祖神は、はじめから大和に舞い降りる事も出来た筈です。ところが日本書紀は、“ヤマトには別の王が立って居た”という不可解な設定なんですよ。

では。 『 天孫降臨 』 は、何故九州だったのでしょうか? 天孫降臨神話が、天皇家の正当性を述べる為のプロパガンダであるなら、何故もっと見栄えの良いストーリー展開を用意していなかったのでしょうか?

現実に天皇家の始祖が南部九州から後にヤマトにやってきたと考えると、天孫降臨の真相が明らかに成る様に思えてならないのです。

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九州。 そこには、マレー半島から北上したアイヌの始祖が居ました。 其処に、大陸を追われた渡来人が入り込み、この様に西南の地もゆっくりと九州の大地に融合して行ったのです。その末裔が・・・熊襲・隼人。 その一派が、大和朝廷を襲ったとは否定出来ないでしょ?

神話の中の神武天皇が実在したとするなら、127歳まで生きていた事に成ります。・・・在り得ないんですよ。

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封印された歴史 Ⅲ

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=dMT_B916QLk

日本人の起源に関する私の説は、以下の通りです。

日本原人であるアイヌのDNAを辿ると、マレー半島の先端に行き着く事が解かって居ます。 これは途中、九州の熊襲、隼人となり、後に渡来人に追われて蝦夷地に至った集団。私はこれを、『 南方系日本原人 』 と呼んで居ます。

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マレー人 

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一方、北方から日本列島に南下した人種があります。・・・バイカル湖周辺に暮した、ブリヤート人。モンゴロイドです。 

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ただし、蝦夷の頭領、アテルイの容貌は、“青い目の巨漢”であったとされて居ます。 ・・・東スラブ人の特徴ですね。 

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つまり、マンモスを追って南下したブリヤートの一派は、極東の地で永い時間をかけてスラブ人と融合し、日本列島蝦夷地に辿り着いた。 私はこれを、『 北方系和人 』 と、呼んで居ます。 此処から更に東に向かったのがエスキモー。

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蝦夷地で、『 南方系日本原人 』 と 『 北方系和人 』 は出会い、永い年月をかけて融合した。・・・これが、『 三丹人 』 と呼ばれた種族であろう。 北の大地に古来、大規模な争いが見られない事から、東北から北海道に渡る地域は、古代、多数の種族が混在し平和に暮したユートピア(理想郷)であっただろうと思います。 そのユートピアに侵攻したのが後の大和朝廷なのですが・・・。

私の説に依れば、日本列島を 『 大和 』 と 『 日本 』 と言う二つの国に分けた場合、この蝦夷地が 『 日本 』(日ノ下)。

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あ、因みに。 貴方が北方系の遺伝子を持つか、南方系の遺伝子を持つかは、簡単に解かります。 まず生まれた時、尻に蒙古斑があった方は紛れも無くモンゴロイド。北方系です。耳垢は乾燥してると思います。 一方、耳垢がウェットタイプなら南方系です。

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此処で、ある時期を境に、縄文文化から稲作をもたらした弥生文化に入りますが。・・・果たして稲作は、単純に大陸から来た渡来人がもたらしたものだったのか? という疑問が湧いてくるんですよ。

その謎の舞台は、『 大和 』 に移ります。私が目をつけたのは、日本書紀の 『 天孫降臨 』 の神話です。

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2018年1月19日 (金)

封印された歴史 Ⅱ

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=YOldqGJ544A

前スレ

■封印された歴史 :http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2018/01/post-9ad3.html

■はにわはを http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2018/01/post-b389.html

の続きです。 こちら  も併せてご覧ください。

■吟点回帰 青森編 Vol.10 日本中央の碑 :http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2017/08/vol-7a2a.html

■日本の中心は蝦夷だった!Ⅱ http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2007/09/post_d816.html

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これらの事実から導き出されるのは、そもそも此の日本には、古代、二つの国があったという事ですよ。 ・・・そう考えた方が無理が無いので。 そもそも古代の人口からして日本全土がひとつの国に集約されて居たと考える方が無理だし。

冨士山辺りを境に、東日本を 『 日本 』 

        そして、西日本を 『 大和 』。 と呼ばれる二つの国があったと仮定します。

もうね、大和朝廷=邪馬台国の事でしょう。 『 (ヤマト) 』 と呼ばれたのも大和政権の事でしょう。

西日本の政権と言えば、其れは勿論、大和政権ですよ。

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では、邪馬台国は何処に在ったかと言うと、ズバリ奈良ですね。飛鳥時代への流れを考えてもそうですが、黒塚古墳の事実とか、纏向遺跡。箸墓古墳が発見されてるわけですから、否定する方が無理があるでしょ。

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●黒塚古墳 :https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3

●纏向遺跡 :https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1

●箸墓古墳 :https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3

そうすると・・・やはり天照大神とは、卑弥呼の事でしょう。

■ヒミコ http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2017/04/post-124b.html

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そうなると、天皇家の始祖は、卑弥呼という事になるのですが、此処でね、日本書紀の 『 天岩戸 』 の一節ね。 卑弥呼は、何者かに襲撃を受ける事を恐れ、身を隠したか・・・或いは幽閉されたか。後に再び、世間の前に現れるわけですが。

此れにですね、九州の熊襲・隼人が東征した事を、“神武東征” として掛け合わせると・・・如何でしょう? 例えば、侵略軍に襲われた邪馬台国の卑弥呼が、侵略軍の長の妃として融合して行く。

・・・と、仮定したら如何でしょう?

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2018年1月 5日 (金)

はにわはを

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=YEmdkGkTlOA

疑問に感じたらすぐ実行。 レスポンス速いよ~、俺様は。

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芝山町に来ますた。  初めてじゃないけど。 今回は何で来たかと言うと・・・

●MAP https://www.google.co.jp/maps/place/%E8%8A%9D%E5%B1%B1%E7%94%BA+%E8%8A%9D%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%83%BB%E3%81%AF%E3%81%AB%E3%82%8F%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/@35.694,140.4263253,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x6022edd5ca78b8f5:0x98039a29dae46952!8m2!3d35.694!4d140.428514

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東日本のはにわと、西日本のはにわの違いを見極める為。

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こんな土器は、俺が幼少の頃、郷里の岩手県宮古の近くの山の畑を掘り起こせばゴロゴロ出て来て、子供心に貴重なんだろうと拾い集めてたわ。

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子供心にドキドキしながら。  ・・・土器だけに。

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特筆すべきは、古墳時代の後期には既に、漢字が庶民の間に普通に使われて居り、こうした土器は、祭事として神に農作物を供える容器として使用して居たという事実だ。

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さてと、西日本とのはにわの相違は・・・

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うぅ~~む。  なるほど!

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なるほど なるほど! んんんん ・・・わかんねーわ。 happy02

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因みに西日本の埴輪は、こんな  ・・・特に特徴的な違いは無いよなぁ。

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この ↑↓ 国宝の埴輪は群馬県出土だけどな。

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しかし、いかにも朝鮮ぽいんだよなぁ。 まぁ、当時の日本、朝鮮、大陸の服装は似通ってるけどさ。

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日本各地の埴輪のつくりが、どれもこれも似通っているという事は・・・埴輪を作る技術者集団が、どこぞから各地に派遣されたという事ですよ。  

一説には、人身御供として古墳に生きたまま埋められる風習を止めさせる為、埴輪が代用される様になったというわけですが。

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日本の古墳の分布図を見るとやはり・・・大和地方を中心に、富士山を境目にして関東と関西に分かれている。

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しかも関東ではこの辺り一帯に集中。 ・・・これは一体。 ???

まぁね、謎は解からん方がロマンなんでさぁ。 しかし古墳には・・・コーフンした!

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すぐ近くには観音教寺がある。 この門は、今から633年前の建立。

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この寺の始まりは、何と今から千二百三十七年前。 ・・・俺がまだ幼少の頃だな。

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この三重塔は、千葉県の有形文化財です。

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2018年1月 3日 (水)

封印された歴史

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=t37hqA88t38

蝦夷地を巡って居た時に、ふと頭に浮かんだ事があるんですよねぇ。 この件に関してなんですが・・・。 

●吟点回帰 青森編 Vol.15 亀ヶ岡遺跡 :http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2017/08/vol-1ef5.html

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時間的に余裕が無くて遂に行けなかったけど、青森の三内丸山遺跡には、超古代に  の様な、巨大建造物を持つ先進的な集落があった。

実は、『 日本書紀 』 を解読しているうちに、明らかな疑問が湧いてくるんですよ。 それは・・・

何故、日本書紀は、富士山を全く無視しているのか? と、いう事です。  おかしくないですか? 霊峰として、あれだけの日本最上のランドマークがですよ。

・・・こういうインスピレーションて、歴史研究家の心をくすぐるんだよねぇ。

次にこちらをご覧ください。 

●房総を暴走 :http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2013/03/post-673c.html

●のぼうの城Ⅱ :http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2012/12/post-d6e8.html

の、様にですね、大和朝廷が建国した頃には既に、東国に古墳群が存在したわけです。  次にこちらをご覧ください、 

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此れは、日本の古墳の分布を示した地図です。 一目瞭然。 見事に東西に分かれている。  千葉県の芝山町なんて、はにわの町ですからね!

●芝山町立 芝山古墳・はにわ博物館HP http://www.haniwakan.com/

・・・ね。 日本書紀の件も併せ、こうした事実を素直に考えて行くと、・・・古代の日本は2分していた! って考えた方が楽だわな。

時代は、縄文文化と弥生文化の狭間の頃。 ある時を境に、稲作をもたらした弥生時代が始まるわけだが・・・それって単純にな、はたして稲作自体、大陸から来た渡来人がもたらしたものだったのか? という疑問が湧いてくるのよ。

これより歴史研究家 吟水。 このロマンに挑みます!

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2017年8月29日 (火)

吟点回帰 秋田編 Vol.3 武家屋敷

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=Sn-H37GRoPA

角館 見参!!!

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●MAP:https://www.google.co.jp/maps/search/%E8%A7%92%E9%A4%A8+%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%B1%8B%E6%95%B7+%E5%9C%B0%E5%9B%B3/@39.5968984,140.5564215,15z/data=!3m1!4b1

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当家には二つの家紋があります。ひとつは・・・

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丸に違い鷹」  祖母方 安倍一族の紋章です。 変身忍者 嵐 が、こんな家紋をつけてましたね。

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そしてもうひとつは・・・ 祖父方 奥州藤原氏の紋章 「上り藤」 当家の場合はこの紋の中に 「 田 」 という文字がはいります。 どうやら、「藤田」 という意味の様です。 私は主に、こちらの紋を使用します。

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藤原一族は、だいたいこの 「藤紋」を用います。

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では、安倍貞任が一子、高星が率いた安藤氏の家紋はこれ。

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下り藤に安」 安藤とは、安倍の“安”と、藤原の“藤”だと容易に察しはつきます。

その後、安東氏を名乗るのですが・・・。

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安東氏の家紋はこちら。「檜扇に違い鷲の羽

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やはり 違い鷹 を用いてますね。 安東氏にはもうひとつ家紋があります。

獅子に牡丹」  です。 カッコイイですね!

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先に、安東水軍は、天変地異で滅亡したと書きましたが、実は、安東氏の末裔は、後に「 秋田氏 」を名乗ります。

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なぜ、秋田を名乗るようになったのでしょう。秋田を本拠とした実季は、古代以来、出羽国の支配者の官職「秋田城介」への任官を欲したため、苗字も安東から秋田へ替えます。しかし、任官運動中に、宍戸に転封されたため、一時は伊駒を名乗り、その後、1611年にやっと秋田城介に任じられます。以来、秋田を名乗り、主要な家臣にも秋田姓と季の諱を与えました。このため、三春藩士には秋田姓が多いのです。

秋田氏も この 「檜扇に違い鷲の羽」 と 「獅子に牡丹」 を使います。

では、・・・上の「下り藤に安」を使った 安藤氏、後の安東氏は何処に行ったのでしょう?

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どうやら鎌倉末期に安東氏は一族で争い(津軽大乱)、本拠に残った「上国安東家」と十三湊に拠った「下国安東家」に分裂した様なのです。上国安東家のその後は不明である事から、「下り藤に安」を使った本家筋が、此処で絶えたのではないでしょうか。

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更に下国安東家は「(土崎)湊安東家」(秋田市)と「十三湊安東家」に別れる。「十三湊安東家」は南部氏の攻撃により一時蝦夷地に逃れ、(このとき逃れた安東政季の弟が下国家政で「下之国之守護」に任じられたとされる。)本州に戻ったのち、十三湊から檜山(秋田県能代市)に本拠を移し「檜山安東家」となる。この「檜山」「湊」両安東氏が室町時代から並立していくことになり、「檜山」は「安東太郎」、「湊」が「安東二郎」を代々名乗るのである。

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戦国時代に入り、両安東氏は互いに争うが、「湊」の家系が絶え、愛季の弟である茂季が養子に入ることで実質的に「檜山」の安東愛季が「湊」「檜山」両安東家を併せ、安東氏(のちの秋田氏)が統一される。しかし、天正十五年(1587)、愛季が死んで幼い実季が跡を継ぐと、天正十六年末頃より、それに乗じて茂季の子である湊(安東)道季が湊氏の独立を画策して戸沢氏など近隣諸豪族と結んで反乱を起こした。

どうもその反乱軍が新たに使った家紋が、藤紋や違い鷹を全く使わない 「獅子に牡丹」 ではないでしょうか。

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何かもう・・・山口組の抗争みたいですねぇ。

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この乱は翌十七年に至って大規模な争乱に発展し、実季は一時、男鹿の脇本城でなく守りの堅い檜山安東氏の本拠、檜山古城に退かざるを得ないなど、苦境に陥った。しかし実季側への由利衆らの加勢もあって湊氏の諸勢力を駆逐し、秋田周辺の領域や安東家一族を完全に掌中に収めるに至り、湊安東家の檜山安東家への吸収、安東家の統一を実現し戦国大名となりました。

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しかし此処、秋田藩に幕末まで存続したのは 「 佐竹氏 」 です。

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=OaxHCtLGwqw

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此処、角館は佐竹氏の城下町なんですねぇ。佐竹氏は、元々は常陸北部に所領を構える一族だったのですが・・・。

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●かくのだて観光Navi :http://kakunodate-kanko.jp/kakunodate.html

戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた義舜が現れ、佐竹一族を統一。 甲斐武田氏と同盟し、北条氏とは天正12年(1584年)に対決。奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力をもってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。

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ところが関が原合戦後、徳川家康から突然出羽国への国替えを命じられ、秋田へと転封された。これは、・・・ 関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。

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秋田氏はこの時に、家康の命によって、国替えとなった佐竹氏の煽りを受け、佐竹氏との交換で常陸宍戸5万石に移された。 と、いうわけです。こうして秋田氏本家は江戸時代を通じて大名として存続し、明治維新後は子爵となっています。

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これが、渡来人、神武天皇と戦った元々の神州大和の長、安倍一族の歴史です。

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2017年8月26日 (土)

吟点回帰 青森編 Vol.15 亀ヶ岡遺跡


●BGM https://www.youtube.com/watch?v=XZQVJXQO5uc

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亀ヶ岡石器時代遺跡  BC 1000~300 というから、俺が生まれた頃だな!

●MAP: https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%BA%80%E3%82%B1%E5%B2%A1%E9%81%BA%E8%B7%A1/@40.8622749,140.2042902,10.71z/data=!4m5!3m4!1s0x5f9bb9ade34e442d:0x42bb7b82724e6ae!8m2!3d40.8810762!4d140.3357493

青森県西部、津軽半島岩木川左岸の標高7~18m程度の丘陵(亀山地区)と、これを挟み込むように位置する標高3~4m程度の北側と南側の低湿地(近江野沢地区・沢根地区)にまたがって所在している縄文時代晩期(紀元前1,000年~紀元前300年頃)の低湿地を伴う集落遺跡です。

台地上の亀山地区では、マウンド供献品・副葬品をもつ土坑墓による墓域が発見され、低湿地からは、完形品を含む多数の造形的に優れた土器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが出土しています。出土した土器や土偶に代表される縄文時代晩期の優れた物質文化は「亀ヶ岡文化」と呼ばれ、その名称の由来となった遺跡です。

中でも、1887(明治20)年に沢根地区から出土した左脚を欠いた大型土偶(国重要文化財)は、その眼部の表現が「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」の名称の起こりとなったことで知られ、日本の縄文文化を代表する遺物として位置づけられており、土器とともに海外でも高い評価を得ています。亀ヶ岡遺跡における遮光器土偶をはじめとする土偶の製造は、縄文文化の要素である祭祀・儀礼、定住社会の実態をよく表しています。日本の縄文文化を代表する造形美を有し、特に精緻な文様や漆による赤彩などがある精製土器に代表される「亀ヶ岡式土器」は、縄文土器造形の極致とされています。

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面白いのは此の遺跡、城を築こうとした際、津軽藩二代目藩主、津軽信枚が発見してんだな。考古学のコの地も無い安土桃山時代に、良く遺跡だと気が付いたな! スゲー殿様やんか。

●亀ヶ岡石器時代遺跡: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E3%83%B6%E5%B2%A1%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E9%81%BA%E8%B7%A1

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この足の部分が何故無いかと言うと、これはね、別に破損して見つかったんじゃなくて、こういう使い方をしてたんだぜ。 つまり・・・何かの儀式らしいんだが、例えば豊作を祈願して、土偶の体の一部を切り落として祈るんだそうだが。 何故、そういう見解に至ったかと言うと、切断した部分にアスファルトを塗り込んで、貼り付けては切り、切っては貼り付け、何度も何度もそうして繰り返し使った痕跡が残ってるから。

この遮光土器の場合はさしずめ・・・足の悪い人の回復を祈願する為に使った・・・ってとこじゃねーの?

同じ様なのは、↓ 宮城県でも出土してるからね。 

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実は、この目の部分だが・・・。 イヌイット(エスキモー)が使う、遮光器 ↓ にそっくりだから、「遮光土器」って呼ぶんだが。 (雪で目をヤラれるからな)

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エスキモーってさぁ、・・・日本人にそっくりだろ? そりゃそうだ。日本人と同じ、モンゴロイドだからな。 

そういう部分をどんどん掘り下げてくと、歴史ってホント面白いだろ? 日本人はどこから来たかってとこまでイッてしまうからな。 

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此の部分、世界人類学歴史研究家として古代歴史フォーラムに良く呼び出されると言う、五大陸にその名も轟く、吟水博士が、ひとつの見解を持っててな!

マレー半島の先端から北上し、九州から入って北海道まで及んだのが・・・日本原人、アイヌ。つまりこれが縄文人な。 一方、大地が陸続きだった頃、バイカル湖周辺からマンモスを追って南下したのが、北方系和人。 日本人は、支那人や朝鮮人とはDNAが全く異なるのでな! バイカル湖から南下した一派が、極東ロシア(三丹人)や支那、朝鮮に枝分かれしたと考える方が自然で、韓国人なんてのは寧ろ、南下する北方系和人から脱落した大和民族の弟分でありカス。と、考えた方が説明し易いんだが。 東に向かったのが・・・エスキモーな! 

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つまりこの、エスキモーが今でも使用する遮光器が、北方から南下した北方系和人が、津軽の此の辺で開発し、それを持って遥かカナダgawk  まで向かったのがエスキモーだと仮定すると、この遮光土器のデザインが容易に説明出来るんだが。。。

ま、こんな風に説明してくと、この北東北が太古は文明の交流地点であり、此の地を指して 「 日本 」 と呼んだ意味が解かるだべ?  ああ、その後、西の大陸から侵入した天皇家はじめ、渡来系のその一派が、弥生人な!

あ、そうそう。 日本語は何処から来たか、知ってる人居たら、俺に教えてくれよ。教えてくれたら、お礼に、千円もらってやるよ。

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吟点回帰 青森編 Vol.14 十三湊

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=GoI24X0IS6A

●炎立つ 第一話 : https://www.youtube.com/watch?v=Mh9XKyynjm0

猿までわざわざ俺様を歓迎に現れるとは! 

   オッス! coldsweats01

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■ 前九年の役

11世紀、東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という強大な豪族が勢力を誇っていた。

1051年、源頼義 奥州討伐赴任。此処に安倍氏(私の祖母側のルーツです)との前九年の戦いが勃発。

1059年、朝廷軍側に清原氏参戦。 清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。同年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。

安倍貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ源頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。

安倍氏一門の豪族の棟梁、藤原経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首された。  貞任の弟である安倍宗任は伊予国に配流。(恐らく安倍総理に至る流れはこちらでしょう)

こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。  奥州の粗全土はこれで、清原氏に任される事になったわけだが・・・。

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■ 後三年の役

清原武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻(有加一乃末陪)を自らの妻としていた。彼女は安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた息子がいた。この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞と彼女の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。

この、清衡と家衡が抗争し、結果、清衡が勝利し、清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。此処で清原氏の歴史は幕を閉じた。 

清衡は母、有加一乃末陪と共に、父である藤原経清の積年の恨みを晴らしたのである。そして清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復した。

これが、奥州藤原氏の始まり。 (私の祖父方のルーツです)

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一方、こうして安倍一族は滅亡した。・・・かと思われましたが、いやいや。

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実は、前九年の役で戦死した安倍家の棟梁、貞任に高星丸という息子が居りました。父が前九年の役で厨川柵で戦死したとき、高星は乳母にだかれ陸奥(むつ)藤崎(青森県)に逃れました。 彼は安藤を名乗ります。・・・後に

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この、高星を祖としたのが安東氏です。

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=yViUclqT_nM

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安東氏が拠点としたのが此処、十三湊。

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安東水軍の誕生です。

●謎の国 BANDOY: http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2007/09/post_ddc7.html

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●MAP: 
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%B9%96/@41.0239723,140.2972991,12z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f9bc1edd295b2d7:0xd33f75a4ea9e9d02!8m2!3d41.0296341!4d140.3587104

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何故、安藤が→後に安東になったかは、はっきり解かっていません。

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安東家の館跡と思われる場所は、小学校の体育館が建ち、現在は発掘調査室の事務所になっています。

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2017年8月24日 (木)

吟点回帰 青森編 Vol.12 三厩

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私の郷里、宮古市に伝わる 「 義経北行伝説 」 では、平泉で自害したのは、実は義経の影武者であった家人という事になって居ます。
私が知る限り、義経が平泉から逃れたルートは以下の通りです。
紫波町 → 平泉 → 高館 → 束稲山 → 衣川村 → 江刺市 → 大東町 → 遠野市 → 山田町 → 宮古市 → 川井村 → 新里村 → 田野畑村 → 普代村 → 久慈市 → 八戸市 → 青森市
そして此処、三厩村。 義経は此の地から北海道へ逃れました。
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私が知るだけでも、これだけの痕跡が語り継がれているんですよ。作り話にしては余りにも広大ではないか?
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源義経はこの地まで逃げ延びて北海道に渡ろうとしましたが、荒れ狂う津軽海峡が邪魔をし船を出せずにいました。
そこで義経は海岸の奇岩の上に座して、観音を安置し三日三晩祈り続けたそうです。
すると白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って海を渡れ。」と言って消えました。
岩を降りると岩の穴に三頭の龍馬がつながれていて、それに乗り無事に北海道に渡ることができたそうです。
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三頭の龍馬って何でしょうね? んんん・・・想像力働かんわぁ。 まぁ、普通に考えて、義経主従と、用意された馬を乗せる事が出来た程の三艘の帆船でしょう。 その船を手配したのは・・・安倍一族だったかもしれませんねぇ。

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.これが義経が祈り続けた岩。  三厩村の由来です。
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後の1667年、円空仏で知られる円空がこの地を訪れたとき、岩の上から観音像を発見しました。円空はこのいわれを霊夢で知ると、観音像を刻み、観音堂を建立してまつった。これが龍馬山 義経寺の始まりです
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さて、北海道に逃れた義経は、その後どうなったんでしょう? 一説には、大陸に渡り・・・
●チンギス・ハーンは義経か? 『義経北行伝説』 Ⅱ:
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吟点回帰 青森編 Vol.10 日本中央の碑

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=oQB37S2cypc

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8/17日。

此の辺のGEORGIA は、コレ。 東京で見掛けるジョージア缶は無い。 味は・・・あんまぁ~~~ sad  何で東北って味付けが極端なん?

さて今日は、 『 日本中央の碑 』 を見にいぐぞっ! 何故、北東北が日本の中央なのかって? ・・・此れから書きます。

自分は以前、こんなことを書きますた。 

●日本の中心は蝦夷だった!:http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2007/09/post_e6fa.html

良いですか? マルコ・ポーロが、「 黄金の国ジパング 」 と言ったのは、平泉の金色堂の事ですよ。 マルコ・ポーロは岩手を指して、ジパングと言ったのです。

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では、「 ジパング 」 の語源は何でしょうか? 

津軽地方は太古、人種のるつぼでした。アイヌをはじめ此処にはかつて、北方民族であるアソベ王朝、ツボケ王朝がありました。 津軽地方をアソベ族はツパル、ツボケ族はツカル、荒覇吐族はツカリと呼びました。 それが 『 津軽 』 の語源です。

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では ジパング は?  ツガル ← ツカル ← チパル ← チパング ← ジパング です。唐人がそう呼んで居たのを聞いたのがマルコ・ポーロです。 

●謎の国 BANDOY:http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2007/09/post_ddc7.html

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有名な遮光土器が出土したのも此の辺りです。 青森県にはやけに遺跡が多い

青森のコンバインには・・・ ヰセキが多い!・∀・)

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そうした事を検証する為、三内丸山遺跡を観たかったんですが、それより、自分がどーしても見たかったのがこちら。

『 日本中央の碑 』

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●MAP:https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%81%AE%E7%A2%91%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%85%AC%E5%9C%92/@40.804365,141.1326783,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f9b7b7ac34fff5b:0x4b9f21d981d22f59!8m2!3d40.804365!4d141.134867

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この石に 「 日本中央 」 と刻んだのは、アテルイ及び蝦夷を討伐に向かった、征夷大将軍 坂上 田村麻呂 だと云われて居ますが・・・いやいや、違うでしょう。田村麻呂が東征したのは精々、盛岡辺りまでです。 田村麻呂がアテルイを朝廷の元に引き摺り出した後に、津軽方面まで東征したのは、田村麻呂の後任、文室綿麻呂ですよ。

●文室綿麻呂:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AE%A4%E7%B6%BF%E9%BA%BB%E5%91%82

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さて、この 「 日本中央 」 という意味には、二つの説があります。

歴史学者 喜田 貞吉 が唱えるのは、日本の領土を千島列島先端、占守島までを見た場合。其処から沖縄までを測るならば、確かに青森は日本の中央に位置する事になります。

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・・・当時、アイヌからの情報を大和朝廷が得ていたとするならば、ですよ、まぁあり得ない事ではないが、ちょっと眉唾だな! 江戸幕府でさえ樺太さえも重要視して居なかったものを(米が作れないからです)大和朝廷が、占守島までを測量し、認識していたとは到底思われない。

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もうひとつの説。自分はこちらを採用する。

「 日本中央 」 ← コレは、“ニホンチュウオウ” とは読みません。 “ヒノモトチュウオウ” と、読みます。

かつて此の地は、日之下(ヒノモト)と呼ばれました。 

●日本中央の碑:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%81%AE%E7%A2%91

津軽の安藤氏←× 安東氏←○ も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある(この場合、よみは『ひのもと』となる)。

それならば、此の地に 「 日本中央の碑 」 があってもおかしくはありません。  何れにせよ、『 日本 』 という呼称は、本来は北東北の事を指してそう呼んだのです。三内丸山遺跡に見られる様に、古代の日本の文化の中心は、北東北だったのです。

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