2017年8月29日 (火)

吟点回帰 秋田編 Vol.3 武家屋敷

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=Sn-H37GRoPA

角館 見参!!!

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●MAP:https://www.google.co.jp/maps/search/%E8%A7%92%E9%A4%A8+%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%B1%8B%E6%95%B7+%E5%9C%B0%E5%9B%B3/@39.5968984,140.5564215,15z/data=!3m1!4b1

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当家には二つの家紋があります。ひとつは・・・

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丸に違い鷹」  祖母方 安倍一族の紋章です。 変身忍者 嵐 が、こんな家紋をつけてましたね。

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そしてもうひとつは・・・ 祖父方 奥州藤原氏の紋章 「上り藤」 当家の場合はこの紋の中に 「 田 」 という文字がはいります。 どうやら、「藤田」 という意味の様です。 私は主に、こちらの紋を使用します。

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藤原一族は、だいたいこの 「藤紋」を用います。

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では、安倍貞任が一子、高星が率いた安藤氏の家紋はこれ。

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下り藤に安」 安藤とは、安倍の“安”と、藤原の“藤”だと容易に察しはつきます。

その後、安東氏を名乗るのですが・・・。

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安東氏の家紋はこちら。「檜扇に違い鷲の羽

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やはり 違い鷹 を用いてますね。 安東氏にはもうひとつ家紋があります。

獅子に牡丹」  です。 カッコイイですね!

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先に、安東水軍は、天変地異で滅亡したと書きましたが、実は、安東氏の末裔は、後に「 秋田氏 」を名乗ります。

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なぜ、秋田を名乗るようになったのでしょう。秋田を本拠とした実季は、古代以来、出羽国の支配者の官職「秋田城介」への任官を欲したため、苗字も安東から秋田へ替えます。しかし、任官運動中に、宍戸に転封されたため、一時は伊駒を名乗り、その後、1611年にやっと秋田城介に任じられます。以来、秋田を名乗り、主要な家臣にも秋田姓と季の諱を与えました。このため、三春藩士には秋田姓が多いのです。

秋田氏も この 「檜扇に違い鷲の羽」 と 「獅子に牡丹」 を使います。

では、・・・上の「下り藤に安」を使った 安藤氏、後の安東氏は何処に行ったのでしょう?

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どうやら鎌倉末期に安東氏は一族で争い(津軽大乱)、本拠に残った「上国安東家」と十三湊に拠った「下国安東家」に分裂した様なのです。上国安東家のその後は不明である事から、「下り藤に安」を使った本家筋が、此処で絶えたのではないでしょうか。

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更に下国安東家は「(土崎)湊安東家」(秋田市)と「十三湊安東家」に別れる。「十三湊安東家」は南部氏の攻撃により一時蝦夷地に逃れ、(このとき逃れた安東政季の弟が下国家政で「下之国之守護」に任じられたとされる。)本州に戻ったのち、十三湊から檜山(秋田県能代市)に本拠を移し「檜山安東家」となる。この「檜山」「湊」両安東氏が室町時代から並立していくことになり、「檜山」は「安東太郎」、「湊」が「安東二郎」を代々名乗るのである。

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戦国時代に入り、両安東氏は互いに争うが、「湊」の家系が絶え、愛季の弟である茂季が養子に入ることで実質的に「檜山」の安東愛季が「湊」「檜山」両安東家を併せ、安東氏(のちの秋田氏)が統一される。しかし、天正十五年(1587)、愛季が死んで幼い実季が跡を継ぐと、天正十六年末頃より、それに乗じて茂季の子である湊(安東)道季が湊氏の独立を画策して戸沢氏など近隣諸豪族と結んで反乱を起こした。

どうもその反乱軍が新たに使った家紋が、藤紋や違い鷹を全く使わない 「獅子に牡丹」 ではないでしょうか。

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何かもう・・・山口組の抗争みたいですねぇ。

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この乱は翌十七年に至って大規模な争乱に発展し、実季は一時、男鹿の脇本城でなく守りの堅い檜山安東氏の本拠、檜山古城に退かざるを得ないなど、苦境に陥った。しかし実季側への由利衆らの加勢もあって湊氏の諸勢力を駆逐し、秋田周辺の領域や安東家一族を完全に掌中に収めるに至り、湊安東家の檜山安東家への吸収、安東家の統一を実現し戦国大名となりました。

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しかし此処、秋田藩に幕末まで存続したのは 「 佐竹氏 」 です。

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=OaxHCtLGwqw

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此処、角館は佐竹氏の城下町なんですねぇ。佐竹氏は、元々は常陸北部に所領を構える一族だったのですが・・・。

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●かくのだて観光Navi :http://kakunodate-kanko.jp/kakunodate.html

戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた義舜が現れ、佐竹一族を統一。 甲斐武田氏と同盟し、北条氏とは天正12年(1584年)に対決。奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力をもってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。

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ところが関が原合戦後、徳川家康から突然出羽国への国替えを命じられ、秋田へと転封された。これは、・・・ 関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。

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秋田氏はこの時に、家康の命によって、国替えとなった佐竹氏の煽りを受け、佐竹氏との交換で常陸宍戸5万石に移された。 と、いうわけです。こうして秋田氏本家は江戸時代を通じて大名として存続し、明治維新後は子爵となっています。

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これが、渡来人、神武天皇と戦った元々の神州大和の長、安倍一族の歴史です。

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2017年8月26日 (土)

吟点回帰 青森編 Vol.15 亀ヶ岡遺跡


●BGM https://www.youtube.com/watch?v=XZQVJXQO5uc

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亀ヶ岡石器時代遺跡  BC 1000~300 というから、俺が生まれた頃だな!

●MAP: https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%BA%80%E3%82%B1%E5%B2%A1%E9%81%BA%E8%B7%A1/@40.8622749,140.2042902,10.71z/data=!4m5!3m4!1s0x5f9bb9ade34e442d:0x42bb7b82724e6ae!8m2!3d40.8810762!4d140.3357493

青森県西部、津軽半島岩木川左岸の標高7~18m程度の丘陵(亀山地区)と、これを挟み込むように位置する標高3~4m程度の北側と南側の低湿地(近江野沢地区・沢根地区)にまたがって所在している縄文時代晩期(紀元前1,000年~紀元前300年頃)の低湿地を伴う集落遺跡です。

台地上の亀山地区では、マウンド供献品・副葬品をもつ土坑墓による墓域が発見され、低湿地からは、完形品を含む多数の造形的に優れた土器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが出土しています。出土した土器や土偶に代表される縄文時代晩期の優れた物質文化は「亀ヶ岡文化」と呼ばれ、その名称の由来となった遺跡です。

中でも、1887(明治20)年に沢根地区から出土した左脚を欠いた大型土偶(国重要文化財)は、その眼部の表現が「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」の名称の起こりとなったことで知られ、日本の縄文文化を代表する遺物として位置づけられており、土器とともに海外でも高い評価を得ています。亀ヶ岡遺跡における遮光器土偶をはじめとする土偶の製造は、縄文文化の要素である祭祀・儀礼、定住社会の実態をよく表しています。日本の縄文文化を代表する造形美を有し、特に精緻な文様や漆による赤彩などがある精製土器に代表される「亀ヶ岡式土器」は、縄文土器造形の極致とされています。

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面白いのは此の遺跡、城を築こうとした際、津軽藩二代目藩主、津軽信枚が発見してんだな。考古学のコの地も無い安土桃山時代に、良く遺跡だと気が付いたな! スゲー殿様やんか。

●亀ヶ岡石器時代遺跡: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E3%83%B6%E5%B2%A1%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E9%81%BA%E8%B7%A1

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この足の部分が何故無いかと言うと、これはね、別に破損して見つかったんじゃなくて、こういう使い方をしてたんだぜ。 つまり・・・何かの儀式らしいんだが、例えば豊作を祈願して、土偶の体の一部を切り落として祈るんだそうだが。 何故、そういう見解に至ったかと言うと、切断した部分にアスファルトを塗り込んで、貼り付けては切り、切っては貼り付け、何度も何度もそうして繰り返し使った痕跡が残ってるから。

この遮光土器の場合はさしずめ・・・足の悪い人の回復を祈願する為に使った・・・ってとこじゃねーの?

同じ様なのは、↓ 宮城県でも出土してるからね。 

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実は、この目の部分だが・・・。 イヌイット(エスキモー)が使う、遮光器 ↓ にそっくりだから、「遮光土器」って呼ぶんだが。 (雪で目をヤラれるからな)

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エスキモーってさぁ、・・・日本人にそっくりだろ? そりゃそうだ。日本人と同じ、モンゴロイドだからな。 

そういう部分をどんどん掘り下げてくと、歴史ってホント面白いだろ? 日本人はどこから来たかってとこまでイッてしまうからな。 

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此の部分、世界人類学歴史研究家として古代歴史フォーラムに良く呼び出されると言う、五大陸にその名も轟く、吟水博士が、ひとつの見解を持っててな!

マレー半島の先端から北上し、九州から入って北海道まで及んだのが・・・日本原人、アイヌ。つまりこれが縄文人な。 一方、大地が陸続きだった頃、バイカル湖周辺からマンモスを追って南下したのが、北方系和人。 日本人は、支那人や朝鮮人とはDNAが全く異なるのでな! バイカル湖から南下した一派が、極東ロシア(三丹人)や支那、朝鮮に枝分かれしたと考える方が自然で、韓国人なんてのは寧ろ、南下する北方系和人から脱落した大和民族の弟分でありカス。と、考えた方が説明し易いんだが。 東に向かったのが・・・エスキモーな! 

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つまりこの、エスキモーが今でも使用する遮光器が、北方から南下した北方系和人が、津軽の此の辺で開発し、それを持って遥かカナダgawk  まで向かったのがエスキモーだと仮定すると、この遮光土器のデザインが容易に説明出来るんだが。。。

ま、こんな風に説明してくと、この北東北が太古は文明の交流地点であり、此の地を指して 「 日本 」 と呼んだ意味が解かるだべ?  ああ、その後、西の大陸から侵入した天皇家はじめ、渡来系のその一派が、弥生人な!

あ、そうそう。 日本語は何処から来たか、知ってる人居たら、俺に教えてくれよ。教えてくれたら、お礼に、千円もらってやるよ。

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吟点回帰 青森編 Vol.14 十三湊

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=GoI24X0IS6A

●炎立つ 第一話 : https://www.youtube.com/watch?v=Mh9XKyynjm0

猿までわざわざ俺様を歓迎に現れるとは! 

   オッス! coldsweats01

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■ 前九年の役

11世紀、東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という強大な豪族が勢力を誇っていた。

1051年、源頼義 奥州討伐赴任。此処に安倍氏(私の祖母側のルーツです)との前九年の戦いが勃発。

1059年、朝廷軍側に清原氏参戦。 清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。同年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。

安倍貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ源頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。

安倍氏一門の豪族の棟梁、藤原経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首された。  貞任の弟である安倍宗任は伊予国に配流。(恐らく安倍総理に至る流れはこちらでしょう)

こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。  奥州の粗全土はこれで、清原氏に任される事になったわけだが・・・。

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■ 後三年の役

清原武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻(有加一乃末陪)を自らの妻としていた。彼女は安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた息子がいた。この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞と彼女の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。

この、清衡と家衡が抗争し、結果、清衡が勝利し、清原氏の旧領すべてを手に入れることとなった。此処で清原氏の歴史は幕を閉じた。 

清衡は母、有加一乃末陪と共に、父である藤原経清の積年の恨みを晴らしたのである。そして清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復した。

これが、奥州藤原氏の始まり。 (私の祖父方のルーツです)

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一方、こうして安倍一族は滅亡した。・・・かと思われましたが、いやいや。

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実は、前九年の役で戦死した安倍家の棟梁、貞任に高星丸という息子が居りました。父が前九年の役で厨川柵で戦死したとき、高星は乳母にだかれ陸奥(むつ)藤崎(青森県)に逃れました。 彼は安藤を名乗ります。・・・後に

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この、高星を祖としたのが安東氏です。

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=yViUclqT_nM

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安東氏が拠点としたのが此処、十三湊。

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安東水軍の誕生です。

●謎の国 BANDOY: http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2007/09/post_ddc7.html

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●MAP: 
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%B9%96/@41.0239723,140.2972991,12z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f9bc1edd295b2d7:0xd33f75a4ea9e9d02!8m2!3d41.0296341!4d140.3587104

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何故、安藤が→後に安東になったかは、はっきり解かっていません。

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安東家の館跡と思われる場所は、小学校の体育館が建ち、現在は発掘調査室の事務所になっています。

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2017年8月24日 (木)

吟点回帰 青森編 Vol.12 三厩

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私の郷里、宮古市に伝わる 「 義経北行伝説 」 では、平泉で自害したのは、実は義経の影武者であった家人という事になって居ます。
私が知る限り、義経が平泉から逃れたルートは以下の通りです。
紫波町 → 平泉 → 高館 → 束稲山 → 衣川村 → 江刺市 → 大東町 → 遠野市 → 山田町 → 宮古市 → 川井村 → 新里村 → 田野畑村 → 普代村 → 久慈市 → 八戸市 → 青森市
そして此処、三厩村。 義経は此の地から北海道へ逃れました。
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私が知るだけでも、これだけの痕跡が語り継がれているんですよ。作り話にしては余りにも広大ではないか?
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源義経はこの地まで逃げ延びて北海道に渡ろうとしましたが、荒れ狂う津軽海峡が邪魔をし船を出せずにいました。
そこで義経は海岸の奇岩の上に座して、観音を安置し三日三晩祈り続けたそうです。
すると白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って海を渡れ。」と言って消えました。
岩を降りると岩の穴に三頭の龍馬がつながれていて、それに乗り無事に北海道に渡ることができたそうです。
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三頭の龍馬って何でしょうね? んんん・・・想像力働かんわぁ。 まぁ、普通に考えて、義経主従と、用意された馬を乗せる事が出来た程の三艘の帆船でしょう。 その船を手配したのは・・・安倍一族だったかもしれませんねぇ。

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.これが義経が祈り続けた岩。  三厩村の由来です。
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後の1667年、円空仏で知られる円空がこの地を訪れたとき、岩の上から観音像を発見しました。円空はこのいわれを霊夢で知ると、観音像を刻み、観音堂を建立してまつった。これが龍馬山 義経寺の始まりです
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さて、北海道に逃れた義経は、その後どうなったんでしょう? 一説には、大陸に渡り・・・
●チンギス・ハーンは義経か? 『義経北行伝説』 Ⅱ:
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吟点回帰 青森編 Vol.10 日本中央の碑

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=oQB37S2cypc

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8/17日。

此の辺のGEORGIA は、コレ。 東京で見掛けるジョージア缶は無い。 味は・・・あんまぁ~~~ sad  何で東北って味付けが極端なん?

さて今日は、 『 日本中央の碑 』 を見にいぐぞっ! 何故、北東北が日本の中央なのかって? ・・・此れから書きます。

自分は以前、こんなことを書きますた。 

●日本の中心は蝦夷だった!:http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2007/09/post_e6fa.html

良いですか? マルコ・ポーロが、「 黄金の国ジパング 」 と言ったのは、平泉の金色堂の事ですよ。 マルコ・ポーロは岩手を指して、ジパングと言ったのです。

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では、「 ジパング 」 の語源は何でしょうか? 

津軽地方は太古、人種のるつぼでした。アイヌをはじめ此処にはかつて、北方民族であるアソベ王朝、ツボケ王朝がありました。 津軽地方をアソベ族はツパル、ツボケ族はツカル、荒覇吐族はツカリと呼びました。 それが 『 津軽 』 の語源です。

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では ジパング は?  ツガル ← ツカル ← チパル ← チパング ← ジパング です。唐人がそう呼んで居たのを聞いたのがマルコ・ポーロです。 

●謎の国 BANDOY:http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2007/09/post_ddc7.html

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有名な遮光土器が出土したのも此の辺りです。 青森県にはやけに遺跡が多い

青森のコンバインには・・・ ヰセキが多い!・∀・)

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そうした事を検証する為、三内丸山遺跡を観たかったんですが、それより、自分がどーしても見たかったのがこちら。

『 日本中央の碑 』

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●MAP:https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%81%AE%E7%A2%91%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%85%AC%E5%9C%92/@40.804365,141.1326783,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f9b7b7ac34fff5b:0x4b9f21d981d22f59!8m2!3d40.804365!4d141.134867

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この石に 「 日本中央 」 と刻んだのは、アテルイ及び蝦夷を討伐に向かった、征夷大将軍 坂上 田村麻呂 だと云われて居ますが・・・いやいや、違うでしょう。田村麻呂が東征したのは精々、盛岡辺りまでです。 田村麻呂がアテルイを朝廷の元に引き摺り出した後に、津軽方面まで東征したのは、田村麻呂の後任、文室綿麻呂ですよ。

●文室綿麻呂:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AE%A4%E7%B6%BF%E9%BA%BB%E5%91%82

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さて、この 「 日本中央 」 という意味には、二つの説があります。

歴史学者 喜田 貞吉 が唱えるのは、日本の領土を千島列島先端、占守島までを見た場合。其処から沖縄までを測るならば、確かに青森は日本の中央に位置する事になります。

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・・・当時、アイヌからの情報を大和朝廷が得ていたとするならば、ですよ、まぁあり得ない事ではないが、ちょっと眉唾だな! 江戸幕府でさえ樺太さえも重要視して居なかったものを(米が作れないからです)大和朝廷が、占守島までを測量し、認識していたとは到底思われない。

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もうひとつの説。自分はこちらを採用する。

「 日本中央 」 ← コレは、“ニホンチュウオウ” とは読みません。 “ヒノモトチュウオウ” と、読みます。

かつて此の地は、日之下(ヒノモト)と呼ばれました。 

●日本中央の碑:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%81%AE%E7%A2%91

津軽の安藤氏←× 安東氏←○ も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある(この場合、よみは『ひのもと』となる)。

それならば、此の地に 「 日本中央の碑 」 があってもおかしくはありません。  何れにせよ、『 日本 』 という呼称は、本来は北東北の事を指してそう呼んだのです。三内丸山遺跡に見られる様に、古代の日本の文化の中心は、北東北だったのです。

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2017年4月21日 (金)

ヒミコ

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=tjNM53TYcNU

全項目で述べました 天照大神 ですが、これに付きましては自分は、間違いなく 卑弥呼 であると断定して居ます。 (理由は、また次の機会に)

卑弥呼 は中国式の当て字ですから、本来は、「日巫女」→太陽に仕える巫女 という意味です。 しかし卑弥呼がアマテラスだとすると、色々と矛盾も出てきます。 まずは・・・天皇家の始祖は卑弥呼という事になります。

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私が唱える説で行くと、安日彦がスサノオなら、卑弥呼の弟だったという事になります。すると、邪馬台国はやはり出雲にあり、日本の王である長髄彦は、そこで渡来系侵略者である神武天皇に殺され、安日彦は北の地に逃れ、新たな国家を建設し、政権に対する反乱軍となっていく・・・というストーリーになるわけですが。

邪馬台国の実在場所と卑弥呼、そして神武東征は日本の三大ミステリーなわけですが、だいたいですねぇ、魏志倭人伝の記述がテキトーなので、そのせいで現在も尚、解釈が混乱して居るわけです。 此処で大事なのは、時代考証です。

神武東征が、邪馬台国・卑弥呼よりも後の話だと、決め付けられて居ること自体、本当でしょうか? 此の部分の何の確証も無いから、解釈が混乱するんですけどね。

では此処で今一度、「魏志倭人伝」を振り返ってみましょう。

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元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。

 卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。

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卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。

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正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の後継者(宗女)である13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。

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魏志倭人伝が伝える此の部分と、私の感性を併せて素直に解釈して行くと、国政を補佐した卑弥呼の弟というのは、安日彦と長髄彦でしょう。 宮室に入った男子とは、弟の長髄彦ではないでしょうか。

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此処に渡来の侵略軍である神武天皇が襲来し、邪馬台国を滅ぼす。 そして神武天皇は卑弥呼を妻にしてしまう。 ・・・侵略軍が其の地の女性を妾にするのは、戦国時代まで普通にあった事です。  ・・・それならば、今の天皇家がアマテラスと神武天皇を “ 祖 ” とするのに何の矛盾も無くなるわけだが。 神武天皇が本当に実在したのか?とか、その辺がうやむやになってる点に付いても、こうしたゴタゴタの中で影が薄くなって居る事情があるなら、何となく納得出来る様な・・・。

こうすると、魏志倭人伝に示された 「その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。 」 という部分も真実味が出てくるわけで。 男王とは勿論、神武天皇であり、其れに服さず乱を起こしたのは、安日彦・・・スサノオ。

どうですか? そう解釈した方が、どうにもスマートかと。

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2017年4月20日 (木)

オロチ

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=YOldqGJ544A

あ、そうそう。

歴史研究において、五大陸に轟く世界的権威と云われる吟水が、以前書いた文献をまず、ご覧下さい。

■古事記考察 Ⅳ:http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2010/02/post-6124.html

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続いて。・・・

■古事記考察 Ⅴ:http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2010/02/post-c769.html

古事記って、いくら神話とは言え、何の根拠もない作り話ではない筈。必ず、元になる出来事があるんですよ。

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天照大神の弟であるスサノオ。 私は上記文献の中で、実はこの スサノオ こそ、元々の日本の王である 長髄彦 の兄、アビヒコ の事ではないか? と、説いたわけです。

■長髄彦:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6

古事記に因ればスサノオは、高天原を追放されて下野し、その旅の途中で ヤマタノオロチ  に酒を呑ませて眠らせ、退治するんでしたね?

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まぁ、まさか神話とは言え、幾等なんでも ヤマタノオロチ なんて怪物が、現実には居るとは思えませんから、これを、宴を催し酒を振舞いながら「 八つの部族を統治した 」 と、解釈すると如何でしょうか? 実際に安日彦(アビヒコ)は、津軽の地で、アラハバキ神を信仰の根幹として、蝦夷地の部族を統治しています。

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■アラハバキ:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD

自分はこの自然崇拝であるアラハバキの信仰こそ、神道の起源だと考えて居ますけどね。

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さてさて、『 ヤマタノオロチ 』 ですが、全項目http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2017/04/vol2-311c.htmlで述べた・・・

■ウリチ:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%81

に関する文献の概要部分を良く読んでみて下さい。 

『ウリチはアムール川最下流に居住するニヴフ、上流のウスリー川の合流地点などに住むナナイに挟まれる形でアムール川下流域に居住しており、他にも北でネギダールと、南でオロチと接している。。』  

.......ほら! つながった。

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ね! この場合の 『 オロチ 』 とは、ロシア語なんですが、では、ロシア語で言う 『 オロチ 』 の意味は、こちら。 

■オロチ:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81_(%E6%B0%91%E6%97%8F)

オロチとはまさに、ロシア語で「部族」という意味だったのです!

ど~すか? 私が根拠無くテキトーな事を言ってるわけでもなさそうでしょ? ま、こうした部分が、世界が認めた歴史研究家である驚異のイマジネーションを持つと恐れられた吟水の感性なわけだが。。。

因みに、ゴジラのライバルであるキングギドラは、このヤマタノオロチがモチーフですけどね!coldsweats01

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2016年8月 6日 (土)

黙祷

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=xKj08mdnySs&feature=related

ヒロシマ。 71年目の夏。 黙祷を捧げる。

K

時、同じくして、オリンピック開会式。 ・・・感動した。 これから始まる競技での戦いは、開会式にこそ集約されて居る。 異なる地域、異なる民族が互いに心を許し、心・技・体の極限に挑む。 力を尽くした中で、其処には勝者も敗者も無い。 

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開会式のセレモニーで、日本人移民がブラジルで開花させた魂が演じられたこと、私は大和民族の一員として誇りに思う。 日本人選手団が開会式のグラウンドに登場した時、あの、世界中から頂いた、絶大な喝采。

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元々私は涙もろいんだけど、オリンピック開会式を見ていたら、自然に涙が流れていました。

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ブラジルは、白人に依って搾取され、ネイティブが迫害された。そうして荒らされた土地を、我が大和民族が開花させた。・・・原住民と共に。

日本人とは、いつでもそういう民族なのです。 大和民族は古来、世界の平和を裏で支え続けました。 そろそろ、世界から評価されても良いでしょう。

忘れないで頂きたいのは、こうした世界平和を導く為に、大和民族の血が、世界中の荒野に流れたという事実。 今ある世界の平和は、先人の英霊の魂が築いたものです。

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この世界に、まだ脅威が残っているならば、我々大和民族には、まだ、やるべき事があるのではないですか? 其れが、真に、神に選ばれし民の責務です。

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人間は浅墓です。 戦わなければ平和を維持出来ないなんて。 心を、許し合えば良いのに、ただ、其れだけなのに。

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=pJ9AH6zgd-o

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本日、心から合掌致します。

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2016年7月10日 (日)

是非に及ばず! 信長暗殺の黒幕は誰だ Ⅸ

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=YxHIzDzLS0o

昨日の 『 世界ふしぎ発見 』 ご覧に成りましたか? 明智家の末裔が出演し、信長暗殺の真実を解いて行くのですが・・・。私が前回、

■Ⅷ:http://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2016/03/post-2b27.html

で示した通り、やはり此の謎を解くキーパーソンは、『 弥助 』 でしたね! イエズス会の関与にも言及されていました。 まさか・・・信長暗殺解明の鍵が、スペインに在ったとは! 

http://dokujyoch.net/archives/63133643.html

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なるほど! 目からうろこで、思わず目頭が熱くなったよ。 ・・・そういう見識があったか!  それ、自分の感性にも実にシックリくる。

大まかな真実のストーリーはこうです。

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=q4nwlV5s1KY

天下布武を目指し、関東制覇を成し遂げた信長には、もはや、徳川家康の存在は不要となった。不要どころか、家康を生かしておく事は、己の足元をすくわれる恐れすらあった。兵法「六韜三略」に倣い、まず、制覇を成し遂げる為に、己の側近であるNo2を葬る。・・・信長の気性であれば、これは有り得ます。 確かに、家康を封じれば、其の東の有力武将は北条氏。家康を殺し、強大な力を持てば、北条も敵では無い。 

・其処で信長は、己の第一のブレーンであった明智光秀に、家康暗殺を指示します。ところが信長のその暴挙に、光秀は流石に猛反発します。即座に光秀は信長に足蹴にされたのです。 

盟友である家康さえ亡き者にしようとする信長の非情さに、「 次は我が身か 」 と察した光秀は、密かに密使を遣い、家康に信長の策略を伝えます。 

・信長の策略とは、家康を本能寺に誘い出し、其処で光秀に討たせる算段。其処で家康を油断させる為、敢えて少数の手勢で本能寺に構えた。 確かに、何の策も無く、策略家の信長が、少数の手勢で無防備を晒す事など考えられないのです。 ↓

・天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長から誘いを受けた家康は、これも少数の手勢で本能寺に向かっていますが、何故か途中で、鸚鵡返しで元の道を引き返します。

・そして本能寺に現れたのは、本来は家康を撃つ為に向かった、光秀の大軍勢でした。 此の時、全てを悟った信長が、 「 我は己で此の命を縮めたか! 」 と、最期の言葉を発するのですが、其の、信長の最期の言葉が、スペインの古文書に残されていた。と、いうわけです。 

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では、其の信長の最期の言葉が、何故、スペインの古文書に残っているのかと言うと・・・弥助 です。 弥助は本能寺から逃げ延び、イエズス会に報告したのです。

全て、辻褄が合うではないですか!

そうすると此のハナシは・・・ココ ↓ に、戻ってくるんだが・・・。

■Ⅳhttp://ginsui.cocolog-nifty.com/bullbon_room/2015/10/post-0ede.html

最期に、光秀と家康。 この二人の最大の誤算が、秀吉の中国大返し だったと言う事です。

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2016年6月26日 (日)

淀姫

●BGM https://www.youtube.com/watch?v=cqiM8a12VFk

今日の 『 真田丸 』 を観てて、ふと思ったのですが。

淀姫 ( 浅井 茶々  。

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とてもミステリアスな女性だったとされています。 「 悪女 」 とされて居ますが、確かに彼女の行動は奇怪なんですね。

彼女の生い立ちを考える時、メンタル的に、重大な問題を抱えていたと思っても、何の不思議も無いんですよ。 いや寧ろ、そう考えた方が納得できるし、行動にも辻褄が合います。

実際、史実にも 『 慶長6年になると、「気鬱」が激しくなり、胸が痛み、食事が取れなくなったり、頭痛に悩まされ、曲直瀬玄朔から処方をされた 』 との記録が残って居ます。

彼女はさして美人でもなかったとされて居ますが、秀吉の異様な程ののめり込み様、周囲を振り回す有様。

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・・・『 境界性パーソナリティ障害 』 だったと解釈すると、実に納得出来るわけです。

で、あるならば、千利休切腹にも深く関わって居たとされ、豊臣家滅亡の切っ掛けにもなって居り、これをほって置くと、やがて現代の国家存亡にも関わると説く、私の主張もあながち眉唾ではないのですが。

こうした女性が、今後の日本に増殖するのは確実です。 其れだけは言っておきます。 その時に成ってから始めても遅いんです。 だから気が付いた人間が ・・・防ぐ のです。

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