2007年9月29日 (土)

日本の中心は蝦夷だった!Ⅲ-2

652 ■南方系日本原人

最近の研究では、DNA解析が発達して来たお蔭で、人類のルーツも科学的に解明されて来たんですね。
アイヌ民族のミトコンドリアDNAを辿るとそれは、マレー半島の先端にまで達する事が分って来ています。

実はそれこそ何年も前から私は、様々な共通点から、九州の熊襲・隼人は、アイヌと同祖
を持つのではないのか?と、様々な場所で発言しておりました。
・・・ビンゴ!でした。やっと、つい最近になってから、どうやら「熊襲とアイヌは、同じDNAを持つ様だ」との研究結果が公表される様になりました。
まぁ、私の感性に、科学がやっと追いついたというところでしょうか?(笑

つまり、どういう事かと言いますと、マレー半島から北上した民族が九州に辿り着き、一旦そこで分岐。九州に留まった一団が“熊襲”と“隼人”。更に東北に向った一団が、“
アイヌ”。と、言う事です。
古来、日本全土に分布していた「縄文人」と呼ばれるものこそが正にそれだと、私は思っています。
総じて、最初に日本列島に広く分布したものこそが、この『南方系日本原人』だと、私は言っているわけです。アイヌ民族こそ、日本人の原型だと、私は言って来たわけです。

さて、皆さんも小学校の歴史教科書で習ったでしょう。この縄文時代から、或る日“弥生時
代”という異文化に移行して行きます。「弥生人」等と言いますが、明らかにその時代に何か変革が起きたのです。
弥生文明を齎したものは、一体何でしょう。
・・・それが、私が言う「北方系和人」の登場です。

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■北方系和人

北方系と言っても、単純に支那・朝鮮半島からの渡来人とは、DNAが異なる様ですね。
起源はもっと北。彼らはマンモス等を追って、そのまま沿岸をつたって日本列島に南下した一団です。
途中で分岐したのが支那人・朝鮮人という事になるでしょう。DNAは全く異なる様ですが、日本人にそっくりのエスキモーの存在にも興味があるところです。

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■ルーツの探り方

貴方が北方系か、南方系かを探るのは、実は非常に簡単です。
今では古典的に言われている事ですが、それは『耳垢』
耳垢がウェットな方は南方系の遺伝子、ドライな方は北方系の遺伝子を引き継いでいる事になります。
実はドライな耳垢は、世界人口の中でも比率は少なく、世界人口のわずか2割以下だったと思います。北限に生きた民族に限った特徴なんですね。

寧ろウェットな耳垢の人が、世界では主流という事になります。

それより、もっと分り易いのは「蒙古斑」ですね。
生まれた頃にお尻に痣のあった方は、明らかにモンゴロイドの特徴を受け継いでいます。南方系のDNAを強く引き継いだ方には無い特徴ですね。

さて私の場合、耳垢はドライ。蒙古斑も持っていたらしいです。
つまり私は北方系和人。・・・と言うことは、ちょっと乱暴ではありますが、安倍一族の祖、安日彦もまた北方系和人だったでしょう。それが安倍一族の風貌が、アイヌとは異なっていたという事を示しています。

勿論、現代までに随分と混血が進み、一様に民族の違いを識別する事は困難になっていますが。

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日本の中心は蝦夷だった!Ⅲ 

皆さん既にご承知の通り、「日本人」とは一口に言いますが、決して単一民族では無かったわけです。
先に挙げておりましたが、日本列島には古来から、ウィルタ民族・ニヴフ族・アソベ族・ツボケ族・アイヌ民族・大和民族・帰化人(渡来人)・熊襲・隼人・琉球民族・・・とまぁ、ざっとそれだけの人種が住んでいたわけです。

・・・この狭い国土の中で、現代迄引き摺って民族紛争など起きていたら、それは堪ったものでは無かったでしょう。
そういう意味に措いては、古代朝廷の“東征”は理に適っていたとは言えます。「日本」という国が誕生するや否や、早々に未来への紛争の火種を消し去ったのは、それはそれで流石、日本人の“叡智”ではあります。
638
この章では、日本人のルーツについて語って参ります。
私が勝手に言ってる呼び方ですが、それは“南方系日本原人”と、“北方系和人”に大別されます。

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安倍一族の起源、神武東征

625 時を神話の時代まで遡ると、流れの辻褄が見えて来ます。安倍一族の起源は、以外にも古事記に記されています。

大和国(奈良県)で初代天皇となった神武天皇は、最初から大和にいた訳ではありません。彼の故郷は日向国(宮崎県)とされています。その九州から、山陽地方を経て大和国へと遷り、初代天皇に即位(紀元前660年)したと言うのですが、この時、大和国には一人の強大な王がいました。「長髄彦」です。つまり、長髄彦にとって神武天皇は、自分達の国を征服しにやって来た「侵略者」でしかなかった訳です。、彼は大和国へと侵入してきた神武天皇に対して、徹底抗戦しますが、戦いは神武天応の勝利に終わり、長髄彦は日本史
上初の朝敵として滅ぼされたのです。
「長髄彦は饒速日命の手によって殺された」と記されており一族は滅ぼされたとされていますが、実は、長髄彦には兄が居ました。
その兄の名前は『安日彦(アビヒコ)』と言います。彼は神武軍に敗退し大和国を放棄
すると、その足で北へと向かったのです。

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前述の通り、当時の津軽地方は、アソベ族とツボケ族が互いに争う土地でしたが、ここに安日彦が来襲し、新しい津軽の王となったのです。
安日彦は、この地方の神・イシカカムイ・ホノリカムイ・ガコカムイ等の神々を併合させ、その最高神を荒覇吐 (アラハバキ) 神とし、荒覇吐族と名乗ります。

それはやがて、周辺に住んでいたアイヌ民族等も取り込んで、強大な集合体となって行ったでしょう。
これこそが、安日彦を祖とする、安倍一族の始まりです。

・・・この時からつまり蝦夷の地は、侵略者である中央政権に対し、徹底抗戦する反乱軍を形成して行く事になります。北の地に未来に向う新たなる理想郷を造ろうとした始
まりでした。

・・・このストーリーの展開、何処かで聞いたような。。。そう!『スターウォーズ』のストーリー、そのままではありませんか。

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安倍一族の謎を解く

“安倍総理大臣、辞任!!”
・・・歴史は繰り返す。。。やはり安倍一族は、歴史に翻弄される運命を背負っているのでしょうか。時代は何時でも逆巻く波。“光と闇”その果ての無い攻防は、どちらが勝利するでも無く、表裏一体であり、太古から未来永劫に続く宿命ではあります。
決して絶えることの無い『血流』。安倍一族の“血”は、永劫に流れるのです。

★「仮面ライダー」で知られる漫画家、石ノ森 章太郎先生の描いた作品の中に『仮面ライダーBLACK』というシリーズがあります。これこそ“光と闇”の壮絶なバトルをテーマにしており、主人公の「黒い太陽」は、皇帝である「月の影」と壮絶な闘いを展開します。一度敗
れた「黒い太陽」は、やがて「光の王子」として蘇ります。・・・これこそ、表裏一体を示しており、『正義』とは、勝った者が語れる事なのだ。と、言っているわけです。   余談でした。

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蝦夷の人々は、それ以前には「毛人」と呼ばれていました。

色々な文献を見る時に、蝦夷の容姿は一様にこう記されています。
「体格は大きく、全身が毛深く、色白。目は青い」
また、前述の通り、源頼義の面前に運ばれて来た安倍貞任の亡骸については、“身丈六尺余り、腰周りは七尺四寸、容貌魁偉、皮膚肥白なりと伝えられ堂々の風格だった”と、伝えられています。
・・・これはどう考えても、モンゴロイドの特徴を示してはいません。「目が青かった」
というのが何とも解せません。

東北から北の種族を語る時、外せないのが『アイヌ』の存在です。しかしながら、安倍一族の風貌は、そのアイヌともまた異なります。それは一体、何を示しているのでしょうか?

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謎の多い安倍氏の出所について、その系譜は未だに解明に至らずと言っても過言では無
いものであり、そこには諸説が語られています。

Ⅰ:阿倍比羅夫 説 -------
ひとつは、一般的に語られる系譜、「陸奥話記」の冒頭に「六箇郡の司に安倍頼良なるもの有り。これ同忠良の子なり。父祖忠頼は東夷の酋長なり・・・」とあり忠頼→忠良→頼良の系譜関係が知られることと、頼良の子に貞任がいたということのみであるが、安倍氏は
俘囚であると記されている点からして俘囚長の系譜であるものと解釈されている。
しかし、何故、安倍姓を名乗ったかは記されておらず、推測にて考察すると阿倍比羅夫から始まる東北との接点が見え隠れしている点を見逃すことはできない。中央の阿倍氏は大和時代から東国や東北支配に関わりがあったとされ、奈良、平安期にかけて阿倍氏の影響下にあり、その影響下の地方豪族が阿倍姓に地名の形の複姓に改姓することが許される場面があったともされ、阿倍柴田臣、阿倍信夫臣、阿倍安積臣、阿倍会津臣・・・
という東北南部地域の豪族が阿倍姓となった実例もあるといわれております。安倍氏は阿倍胆沢臣とか江刺臣とか後の奥六郡とされる地域の地名を名乗っていた可能性もあり、後に安倍姓となったのではないか。

Ⅱ:
阿倍氏移民 説 -------
二つ目は、前記の南東北や関東の阿倍氏が移民とするか、征夷の関係者として奥六郡に入り鎮守府の下級官吏として実務を担当しながら実力を蓄え、後に一大勢力として伸張したのではないかという点、この考えは安倍氏は蝦夷の系統ではない一族とみることができる。

Ⅲ:中央貴族 説 -------
三つ目は中央貴族の出、すなわち平安初期の鎮守府将軍、陸奥介、陸奥少掾といった上級官吏に阿倍氏の名が散見され、これらのうちから奥六郡に子孫を残しものか、子弟などを呼び寄せ、後にこの地に残留する経緯があって、在地からは中央の貴種として尊敬され、代々在庁役人として力を蓄えていたものとも推測される。



●以上の一般に言われる624 三説には、私は全く同意出来ません。全て却下させて頂きます。
確かに阿倍比羅夫は、蝦夷地に大きく関った人物の一人ではありますが、中央に激しく抵抗した奥六郡の蝦夷系の豪族が阿倍姓を名乗る事自体疑問ですし、そもそも日本の風習の法則からしても、『阿倍』が『安倍』という文字に転ずる事は有り得ない事です。

・・・それでは、一体何が真実なのでしょうか?
“物事を掘り下げる”という作業は、意外と単純なものであります。
『安倍』『安東』・・・『安』安・・・安。。。!
歴史上、『安』を掘り下げて行くと、ひとりだけ相応しい人物が浮かび上がって来ます。

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謎の国 BANDOY

623 「樺太」。だいぶ前になりますが、樺太の歴史について文献を読み漁った事があります。因みに、北方四島どころではなく、樺太は史実から、今でもれっきとした日本固有の領土である事に疑いの余地は有りません。

さて、その樺太の歴史に触れる時に、しきりに出てくるのが“BANDOY”という国の事です。
1562年、ベリユによって製作された世界地図の津軽地方からカムチャツカにかけての地域には、“BANDOY”と記されているのです。よく見ると、津軽地方の南に「境界線」が引かれており、明らかに西洋人には、大和とは“別の独立国”として捉えられているのです。

・・それこそがもう一つの「日本国」だったのです。さて、この“BANDOY”というのは、何の事なのでしょうか?

“BANDOY”とは、『安東国』。秋田氏の始祖である安東氏が治めていた国の事です。
安倍氏が前九年の役で源氏・清原連合軍に敗れた時、安倍貞任の遺児、高星丸が津軽の藤崎に逃れ、その後、安東氏を名乗っていたのです。

ここで大切な事は、「親方は代々日ノ本将軍安東 太郎を名乗った」。という事であります。

十三湊を本拠にし、安東水軍の最盛期には、北海道・樺太・千島・中国などと交易していたという事です。
ところが、室町時代に大津波があり、十三湊は壊滅し、その栄華もまた歴史から忽然と消えてしまいます。また南部氏の津軽侵攻などがあり安東氏は津軽の地も追われ、戦国時代は今の秋田県を本拠に活躍します。この後、関が原の戦いや、大阪の陣に巻き込まれた安東氏は、福島の三春に国替えになり秋田氏を名乗るようになったのです。


津軽の呼び名は、もともと北の種族であるアソベ王朝・ツボケ王朝に呼ばれたものであります。アソベ族はツパル、ツボケ族はツカル、荒覇吐族はツカリと呼びました。津軽は倭人からは葦原の国、日高見の国と呼ばれ、韓国人、唐人には、ジパング→チパング→チパル→ツカリ→ツガルと呼ばれたのだそうです。
つまり、マルコポーロが語った“ジパング”とは、元々津軽の事を指し、「日本」の呼称は
、「日高見の国」の事なのです。当時は日高見の国を、“日の下”等と呼んでいた様です。

私には予てから、ひとつの疑問が有りました。
「安倍一族」は、阿弖流為以後、歴史に忽然として登場してくるわけですが、「そもそも“安倍氏”とは、何処から来た一族なのだろう?」と、言う事でした。

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日本の中心は蝦夷だった!Ⅱ

622 ■二つの日本

東方見聞録を表したマルコ・ポーロについて、ちょっと触れておきましたが、こんなところに着目して日本の歴史を掘り下げて行く歴史研究家は、まぁ私以外には居ないでしょうね。

何故最初にマルコ・ポーロを取り上げたかと言うと、彼が示した『黄金の国ジパング』が、日本のどの地域を指しているのか?と、言うところがひどく気になっていたからです。
・・・その地域を指して彼は「ジパング」だと言ったのですよ。
西洋人が驚きを示す限りは、“黄金の国”を云わしめる何らかのシンボルが無ければならないはずです。
・・・それは例えば、京都の“金閣寺”でしょうか?はたまた、平泉中尊寺の“金色堂”でしょうか?

答えは簡単です。
京都の金閣寺は、足利義満の遺言によって創建されました。時にそれは1408年以降です。
一方、平泉中尊寺金色堂が建てられたのが1124年です。
では、マルコ・ポーロが生きた年代はと言うと、1254年~1324年です。彼が中央亜細亜に入ったのが1271年。つまり、京都の事を語ったわけでは無いだろうと言う事が推測
されます。

私は単にその事を言いたかったわけでは有りません。話を最初に戻しますと、何故か、青森県上北郡東北町に、古代に掘られた『日本中央』という碑が現存するのです。その文字を刻んだのは、誰あろう“征夷大将軍 坂上田村麻呂”その人なのです。(坂上田村麻呂
が直接彫ったものでは無いという説もあります)
何故、中央政府の人間が、わざわざ蝦夷の地まで来て、「日本中央」という碑を建てたのでしょうか?・・・という事は?蝦夷が日本で、それ以外の地域は、日本では無かった。と、言う事になりませんか?
そうでなければ或いは、「中央」という意味を、“距離”で捉えた場合、大和朝廷が征服した距離の中心であるという証しを青森の地に刻んだのだとすれば、それは南は九州、北は樺太の先端か、或いはカムチャッカに至る千島列島先端迄を意味する事になりますが、
そんな測量技術が、当時の和人にあったとでも言うのでしょうか?

古代東北は、国家としての機能が存在していたかは不明ではありますが、少なくとも阿弖流為時代までは、当時の中央からみれば異国、すなわち外国であったと思われます。後の日本というひとつの国としての形からすれば総じて中央と東北の歴史が共に語られますが、大和とは違った異文化を持ち、異なる言語、風習が存在する別世界で、これら東北に対して征夷と称して侵略する歴史が実際行われたのであります。

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平泉黄金文化

当家は、祖母方本家筋は、安倍一族の紋章である「違い鷹」の家紋を使用します。また祖父方は、「上り藤に平四つ目」という特殊な家紋を用います。私もこの“上り藤に平四つ目”を使用しますが、この特殊な紋は、未だこの方、私自身、他に見た事が有りません。
総じて、「藤紋」を使用されているお家は、藤原氏にゆかりが有るのだと理解されて間違いは有りません。
620
奥州の歴史、第三幕は、奥州藤原氏について語って参ります。歴史は更に更に繰り返し、その蝦夷の暗黒の輪廻は夢の如くに終焉に向います。

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■奥州藤原氏 初代 藤原清衡

寛治元年(1087)、後三年の役は、源義家による清原氏に対する凄惨な幕切れで終結、ここに清原氏は滅亡することになる。
勝者である源義家だったが、この戦いは朝廷から私闘とみなされ論功行賞はおろか、義家自身が陸奥守解任という幕切れとなる。
源氏の奥羽に覇権を獲得するといった野望は消えたが清衛もまた決して凱旋に酔うといった後味の良いものとはならなかったと思われますが、望むか望まれるかは別として奥羽の人々の眼は、安倍氏、清原氏の嫡宗権を持つ唯一の人物として清衛に注がれ、自らも豊田館に安倍氏の流れをくむ残党を集め、いよいよ奥六郡の支配者として基盤を固めるといった方向性に動き始めたのである。
京・藤原氏との関係構築とあわせ、嘗て多賀国府の有力官人であった父の姓、藤原姓がもっとも相応しく北奥羽のみならず南奥羽での覇権強化を考えれば藤原姓を名乗るのが得策だったかもしれません。清衡は藤原清衡を名乗り、以後百年、四代にわたる奥州藤原氏の脈々たる礎を築いたのである。

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■奥州藤原氏 二代 藤原基衡

藤原基衡は生年没年不詳、その実母の出目さえはっきりとしていません。一説には父清衡が50代に生まれた子とも言われ、清衡の妻、北の方(平氏)には、六男二女があったとされ、二代を継承する基衛は、系図では安倍氏の女、即ち在地との関りがあった女性との間に生まれた子だったという見方でもある。何れにしても清衛には平氏出の妻、外に安倍氏或いは清原氏といった在地勢力縁の妻が二人、合わせて最低でも3名の妻が居たのではないかという見解もあります。
基衡は、次子御曹司(長秋記)と伝えられ、早くから清衡の後継と目されていたものと推測される。当時はまだ長子相続の慣習は少なく、二男である基衡を一応にその後継と考えていたものと推測も出来る。清衡の衡の字を与えることからも想像も出来ますが、安倍氏といった血筋を重んずる清衛にとっては、在地の血が濃い基衡に奥羽の将来を託そうと考えても不思議は無いものと思われます。
奥羽は清衛によりその基盤はほぼ磐石になっていたと想像されます。特に清衛が目指した仏教文化、戦乱を経験した清衡が願う平和で安定した奥州がまさに完成されつつあった時代でありました。
保延年間或いは康治年間(1135~1142)、陸奥守として下向した藤原師綱との争いが起こったとされています。
国司として陸奥へ赴任した師綱が感じた事は、藤原基衛により陸奥国内の摂関家荘園が単なるその管理人たる基衛の領地の如く成り果てていた状況を見、師綱は基衛の勢力拡大阻止、院の名誉威厳を保つため、白河法皇の宣旨を申し渡し、検地を断行して公田の再調査を実施しようとする。基衛にしてみれば従来の権益を守ろうと国司側への妨害工作を演じる。最終的には信夫郡内をめぐる入部問題で国司側と武力衝突が発生、信夫郡を治める大庄司季春は基衛の意を受けていたといわれ、藤原師綱配下の国府軍は大惨敗を喫する。前九年の役での安倍氏同様、また後三年の役での清原真衛、大きな権力、勢力を持つが故に、内に秘める驕った発想が芽生え、真意にない争いを起してしまう、まさに奥羽での過去の戦乱へと発展する事柄でもあった。即ち白河法皇の宣旨を無視し、国府軍と交戦に及ぶ行為、紛れもない反逆行為でもあり、賊徒して追討を受けても致し方ない状況でもあった。
事との重大さを知った基衛は、当時者である大庄司季春の犠牲をもって事無きを得たが、国司藤原師綱との交渉、さらに京摂関家を通じての協力要請、特に摂関家との協力要請は父清衡時代からの外交努力が実を結んだ結果でもあり、武の力のみならず外交という形も重要視していったものと思われます。
これにより従来の摂関家との接触、さらに鳥羽上皇近臣含む院勢力とも関係構築がなされ、特に摂関家とは一層の関係強化がされた事実を伺い知ることが出来ます。

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■奥州藤原氏 三代 藤原秀衡

父祖の偉業を引継ぎ、「北方の王者」としてその勢力を磐石のものとした。しかし、秀衡はその財力により奥州だけではなく中央政権にも繋がりを持ち、1170年には鎮守府将軍に任命されている。1174年頃には鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司である源義経を匿って養育する。1180年、源頼朝が平氏打倒のために挙兵すると、源義経はその軍に加わるため鎌倉へ向かおうとする。秀衡は義経の身を案じ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出した。1181年には、平氏の掌握する朝廷より陸奥守に任じられ、源氏討伐を命じられるが、形勢を静観し動くことはなかった。1187年、頼朝と不和になり、逃亡の身となった義経を再び平泉に匿うが、同年10月、義経が平泉入りをしてからわずか九ヶ月、病に倒れ、子の泰衡、国衡、忠衡に義経を主君となして仕えるよう遺命して没する。 冷静沈着にして豪胆な人物であったといい、歴史小説などでも英邁な君主として描かれることが多い。砂金の産出や中国との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地に王道楽土を現出させている。マルコ・ポーロが東方見聞録に記した黄金の国は奥州平泉がモデルではないかとも言われている。
外交に関しては、巨大な経済力をバックに平氏と友好的な関係を維持しながらも、源氏の御曹司である源義経を匿い、平氏の勢力が衰えると源頼朝とも平和的な関係を築き、源義経が頼朝と不和となり、秀衡を頼るとこれを受け入れ鎌倉政権への抑えとしている。
また、舅である藤原基成はもと院の近臣で、近親者に多数後白河法皇の側近がいた。義経の実母常盤御前の再婚相手の一条長成もその一人であった。秀衡が義経をかくまった理由のひとつに後白河の意向があったことも推測される。
彼の死後、わずか2年で奥州藤原氏は滅びるが、奥州に花開いた文化は現代にもその輝きを伝えている。

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■奥州藤原氏 四代 藤原泰衡

兄の国衡は母親が蝦夷の出身であったために、泰衡は嫡男として扱われる。1187年(文治3年)に父・秀衡が病死したため、家督を相続した。秀衡は死去の際に源頼朝の弟で、源平合戦において活躍した源義経を盟主として従うように遺命を残しており、平家滅亡後に頼朝と対立した義経は奥州藤原氏に匿われていた。頼朝は義経討伐を促していたが秀衡は拒絶し、泰衡も遺命に従い度重なる義経討伐要求を拒否していた。しかし、朝廷から義経追討令が出たことなどで要求に屈し、1189年(文治5年)2月、義経派であった弟の頼衡を殺害。そして同年4月、衣川館の義経を殺害し、その首を鎌倉へ送った。さらに同年6月、同じく義経派であった弟の藤原忠衡も殺害した。

一方、義経が死んだ直後、頼朝は勅命を待たずに奥州藤原氏の討伐軍を起こして奥州合戦が行われる。奥州藤原氏は阿津賀志山の戦いなどでことごとく敗北し、平泉に火を放ち、三代の栄華は、灰燼に帰した。
泰衡は平泉から脱出して渡島(北海道)へ逃れようとした逃亡の途中で、家臣の河田次郎(安田とも)の謀反により殺害された。

思うに、泰衡は源頼朝に負けたのでは無いだろう。永劫に続いた蝦夷の歴史が遂にその自らの重圧に耐え切れず、暗黒にして華麗なるその歴史を、荒覇吐の神が自ら封印してしまった瞬間であった。

ここに、蝦夷の歴史が終焉を迎えたのである。

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安倍氏の隆盛

618 阿弖流為が、将軍坂上田村麻呂に降伏し、処刑され、それから百数十年の歳月が経ち、奥州は安倍氏全盛の時代を迎える。
安倍氏の出処は諸説有り、未だに実証出来る資料も有りませんが、私の永年の研究により、ひとつの確証を得るに至っております。それは後程記述する事に致します。
更に、“陰陽師 安倍晴明”にも言及して参りましょうか?彼も安倍一族。彼の類い稀な呪力を語る時、蝦夷の守護神『荒覇吐神』(アラハバキ)にも触れて行かなければなるまい。

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奥州の歴史、第二幕。歴史は更に繰り返す。
古代奥州の歴史は、征服される一方の、まさに暗黒の歴史を繰り返しました。安倍氏は、その征服と忍従の歴史をはね返し、この地の自主独立を主張し始めていたのです。
阿弖流為らのみせた主張は、表面からは姿を消したように見えても、地下水の水脈のように保たれ、伝統として安倍氏隆盛の根源に生きていたのである。
中央政府側の政治意志と、新しい歴史を北方に創ろうとする安倍氏の意図、その衝突が「前九年の役」なのである。

安倍氏が衣の里に移り住んだのは928年(延長6年)頃だと言います。初代忠頼 二代目忠良 三代目頼良 そして四代目貞任が悲劇の滅亡(1065年 康平5年)に至るまで、130余年間を衣の里舞台に、奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手)を支配しました。そして次に来る平泉文化を生み出すための生みの苦しみの里でもあったのです。
平泉文化の立役者清衡もこの衣の里で育ったのである。彼は藤原経清と頼良(後に頼時)の娘、結有との間に生まれ、後に親の敵ともいう言うべき清原武貞を異父として十数年の忍従の人生を過したのである。

衣の里をして衣の里ならしめる史跡はあの有名な一首坂の掛相である。源・清原連合軍により小松柵・石坂柵を破られ遂に衣河関が落ち衣の里が戦場と化した。遂に苦し紛れに金ヶ崎町鳥海柵へ落ちのびる貞任 それを追う八幡太郎義家は一首坂で彼に追いつきそして呼び止めた。振り向いた貞任に向かい「衣の館はほころびにけり」と下の句を詠むと間髪をいれず貞任は「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返したのである。この蛮族蝦夷の意外性に感じ入った義家は構えていた弓矢をはずし無言で彼を逃したと言うエピソードの里なのです。由緒ある清和天皇の末裔源氏の八幡太郎義家は陸奥蛮族の教養の深さには相当感銘したらしい。この武士の情けは実は1057年黄海の戦いで貞任によって頼義・義家軍が壊滅させられたにもかかわらず二人を見逃してくれたお礼とも取れなくも無いのです。

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■前九年の役

奥六郡の司、安倍頼良は、代々東夷の酋長の家柄で、奥六郡を支配し、その勢力もしだいに六郡の南境である衣川から南へ進出し、また租税も納めなくなり、また徭役も果たさなくなったが、この勢いを誰も止めることができないほど、勢力を誇示していた。
多賀国府でも安倍氏の振る舞いは危惧していたが、ついに意を決して時の陸奥守、藤原登任は軍を起し、ここに前九年の役の戦端が開かれます。登任は出羽国秋田城介の平重成を誘い鬼切部で安倍軍と追討軍が激突、しかし圧倒的勝利で安倍軍に軍配はあがり、安倍氏の勢力は益々拡大する結果となりました。

朝廷は新たなる陸奥守に源頼義を任命、鎮守府将軍も兼任しての下向となるが、頼義が着任すると早々に天下に大赦があり、安部頼良の罪も免じられると頼良は国司である源頼義と同じ呼名の頼良を頼時に改め、新国司、源頼義に帰服する。ここに一時的ではあるが陸奥は兵火がやみ、何事もなく時が過ぎ、頼義の陸奥国司としての任期を迎えることになるが、任期満了日に近づいたある日、頼義は鎮守府に赴くと、安部頼時は身を粉にして歓待し貢物を献じて頼義に仕えたが、頼義が国府へ帰途中に宿営が何者かに襲われ人馬が殺傷される事件が起きる。この事件の犯人に安倍頼時の子、貞任が嫌疑をかけられ頼義から身柄引き渡しの命を受けるが、頼時はこれを拒絶、ついに安倍氏は衣川を閉鎖して源頼義との全面対決の姿勢を示すと、源頼義は再び陸奥守に任じられ、前九年の役の二幕がはじまる。安倍軍の抵抗は頑強で、むしろ戦況は国府方不利であったが、このことに拍車をかけるように安倍頼時娘婿の藤原経清は当初、国府方であったにもかかわらず、流言を飛ばして国府方を攪乱、安倍陣営に走る場面もあった。

戦況打開を目論む源頼義は安倍氏縁戚といわれる奥地の夷族を凋落、安倍頼時はこの夷族説得に赴くが待ち伏せを受けて受傷、後日死亡というひとつの流れを変える事件があったが、当主を失った安倍一族は頼時の子、貞任、宗任、そして経清を中心に一族結束、二千名近い頼義軍を黄海にて大いに破り、頼義は子、源義家の活躍で九死に一生を得て敗退。その後、戦いは膠着状態となり、再び源頼義は陸奥守任期満了の年を迎えるが、任期中に戦局を好転させるべく、出羽の豪族、清原氏に参戦を請い、ようやくその同意を得、ついに清原武則が一万の大軍を率いて頼義軍に合流、衣川の戦いで勝利
すると各柵を落としながら北上、ついに安倍氏最後の拠点、厨川柵にて最後の決戦に挑む。

9月15日、源家軍は総攻撃に転じる、しかし、防御の高い柵を破ることはできず、たちまち数百の屍が累々と横たわる惨状だったが、それでもかまわず攻撃軍は猛攻を仕掛ける、この戦いは三日目に突入、依然安倍軍の抵抗は激しく攻撃軍はその活路さえ見出すことはなかったとされる。しかし、源頼義は一計を案じ、別隊を近在に派遣すると付近の民家を手当たりしだい打ち壊すと、別隊もまた森林の木々を伐採して、さらに小山を崩すと、土砂、材木等を次から次へと掘りへ投げ込み、たちまち堀の一端は埋まり、安倍軍側の矢の攻撃を防ぎつつ、随所に梯子もかけられ、源家軍が柵内への突入を図る。17日夜、源軍の火矢の攻撃が激しさを増すと同時に三方より源軍が一斉に突入、至るところで火の手があがり、流石によく防戦していた安倍軍も大軍には抗すること限界になり、柵内は源家軍による殺戮の絵巻模様と伝えられ女子供まで容赦なく殺され、安倍貞任は満身創痍で動くことも出来ない深手を負い、大楯に乗せられて源頼義の面前に運ばれてきたが、「一面にて死す」身丈六尺余り、腰周りは七尺四寸、容貌魁偉、皮膚肥白なりと伝えられ堂々の風格だったといわれ、一面に死す・・・とは勝者に対する敗者の儀礼だったのか、それとも理不尽な言掛かりを受け無念の死への怨念なのかは定かではないが、勝者側でもその死を賞賛するほど見事な戦い方、最後だったと伝えられている。
また、貞任長男、千世童丸、この時、13歳と伝えられ、柵外に撃って出ること、しばしばで容姿は美麗にして、冑を着用し、「驍勇、祖風あり」よく戦い抜いたが最後は捕らわれの身となり、源頼義はその勇戦ぶりに感嘆すると共に哀憐し、これを許そうとまで考えたとされるが、処刑され、貞任の弟、重任も斬られた。
さらに貞任の妻とも貞任弟の則任の妻は3歳になる幼子を抱き、夫の後を追い、子供共々深淵に身を投げたとも伝えられている。
一方、安倍宗任は虎口を脱し逃亡したが後日、源家に投降、死は免れ伊予へ配流となる。
逆に惨烈だったのは藤原経清、逃げ遅れたところを捕えられ、源頼義の面前に引き立てられると「汝、先祖相伝の家僕なり、しかるに年来、我れを蔑如し、朝威を軽んぜり、その罪最も重し。今日、白符を用いることを得んや否や」と問い詰めると、経清は首を伏して無言だったと伝えられ、源頼義はわざと鈍刀にを以って斬首したとされている。

・・・ここに12年にも及ぶ前九年合戦は終結、安倍一族の殲滅戦で幕を閉じることになる。陸奥支配をほぼ手中に収めたはずの源頼義は形は上位官位である伊予守に任じられ陸奥国から転任、奥六郡の支配は清原氏に実質任され、源氏の陸奥支配は幻となったのであった。

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■後三年の役

清原武貞の養子となった清衡であったが、継父武貞には嫡子真衡がおり、やがて母と武貞の間には弟家衡が誕生、血縁のない兄、異父弟と複雑な関係ながら、清原氏のもと清衡は元服して清原清衡と命名され、若き清原一族の青年武将へと成長していく。間もなく妻子にも恵まれ、江刺郡豊田館に居館を構え不本意であったかもしれないが奥羽の覇者、清原一族のひとりとして一生を終えたかもしれません、しかし舎兄、舎弟さらに時代は清衡を黙って見過ごすことはありませんでした。
 
既に奥羽の地に磐石な支配体制を築いたかにみえた清原氏でしたが、世代も三代目となる舎兄、清原真衡の時代となっておりました。
清原真衡は陸奥国の閉伊郡をはじめ奥地の荒夷や山徒等に対しての平定戦に戦功をあげ、延久3年(1071)に陸奥国司と共に上洛を果たし、朝廷から鎮守府将軍に補任されたことによりより一層奥羽の実力者として権勢をもち、その振る舞いは舎弟清衛、家衛はもとより一族さえも郎従の如き扱い、この行為が後の後三年の役の遠因となっていきます。
 
清原氏第三代、真衡の独断専横の治世は、清原一族内に亀裂を生じさせる内容へと発展、ついに一族の長老、吉彦秀武の反乱となると、秀武の誘いに乗った清衡、家衡兄弟は惣領たる真衡を攻撃する挙にでる。ひとつの賭けだったのか?、兄弟とはいえ重用されることもなくむしろ虐げられた立場への打開の好機到来とみたのか、それとも父、藤原経清含む安倍一族を殺された積年の恨みを晴らす時と蜂起した。この時、清衡28歳、永保3年(1083)といわれている。
 おそらく吉彦秀武の誘いにすばやく呼応し反応を示したところをみれば真衡に対する感情のわだかまり或いは恨みがあったものであろう。

同年、清衡に一大転機をもたらす人物が陸奥に下向して来る。この人物はかつて安倍一族、さらに安倍氏に加担した父藤原経清を滅ぼした張本人、当時陸奥守だった源頼義の嫡子、源義家である。
義家は陸奥守として下向、当然ながら奥羽の実質的な統治を任されているのは清原真衡であり、真衛側に助勢するのは成り行きばかりではなく、国司としては当然の行いでもある。
新国司、源義家の了承を得た清原真衡はまずは出羽の吉彦秀武を討伐すべく軍と共に出陣するが、遠征の途中で急死するといった展開となり、まさに清衛にとっては幸運というべき結果をもたらすこととなる。清衡、家衡兄弟は源義家に降伏、権力者への反乱に加担した事実からすればそれ相応の処分が課せられるのは必至であるが、何故か許され真衡の後継とされていた清原成衡(海道成衡・真衡養子、成衡妻は義家異母妹)に引き継がれるべく奥六郡の所領は清衡、家衡兄弟に分配されるといった思わぬ展開へとなった。 清衡は弟家衡と共に清原一族において一躍実力者となるのである。

陸奥守、源義家は、真衡、清衡、家衡の兄弟にそれぞれ恩を売り、後々奥州の実質的な実権を手中にしようとする策略があったのではとの見解が多く語られている。三兄弟を適度に争わせ、その度に良き調停者を演じ、徐々に陸奥守としての自らを誇示することによって父祖以来の宿願、奥州支配を完成させ源氏の力を朝廷に印象づけることにつなげる狙いもあったのではないかとも語られます。

しかし、真衛が急死、こうなると残された清衛、家衡を後継者候補へ仕立て上げ、片方に加担する。つまりどちらかが倒さなければ倒される、ことに義家が清衡と近づいたことによって家衛の焦りを煽り、やらなければやられるの思いにての賭けを家衛に思い知らせることによって争いを起こさせ、清衡を討つは陸奥守への逆心と捉え賊徒として家衡を滅ぼして名実ともに奥羽の支配を我物とする野心からの策略でもあったと後に多く語られている。。
 
結果は義家は後三年の役にて朝廷から無視され、奥州を去ることとなります。清衛に至っては清原氏の正当な後継者ではなかったが、それ以前の領主、安倍氏につながる者、清原氏の一族として成長した過程にて、奥羽の人々の心が注がれた結果となります。
清衡は、父藤原経清、安倍一族を滅ぼした清原氏に対し、少なくても惣領清原真衡が急逝した時点から、清原氏に代わる陸奥支配を考えていたのではないのか、または時代が清衛を必要としたのか、偶然にして結果的に奥州藤原氏の誕生へと繋がって参ります。

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阿弖流為の時代

615_3 まず、歴史を紐解いて行く前に、事は史実から解説していかなければなりません。プロローグとして、古代の東北地方の歴史から始めて参ります。

「蝦夷」(エミシ)と言っても、あまり良く分らない方も多いのかもしれません。
宮崎駿監督の『もののけ姫』。主人公アシタカの住む舞台となっていたのが蝦夷の村。と、言えば少しは親しみもわくでしょうか?

“蝦夷”とは、大まかには古代の東北地方一帯に住んだ人々を指し、その地を蝦夷地(エゾ)と呼びました。蝦夷という呼び方には、卑しいとか野蛮などという意味合いが込
められています。大和朝廷によって“蛮族”と蔑まれた蝦夷ですが、実際には、そこに大和を越えた崇高な人々が暮らしていたという事を説明して参ります。
蝦夷を語る時、忘れてはならないのが“阿弖流為”(アテルイ)ですね。古代、朝敵の長とされた阿弖流為は、東北人にとっては今でも英雄として親しまれている存在です。


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阿弖流為の名は今から約1,200年前の延暦8年、初めて史上に登場します。
8世紀後半、恒武天皇は日本統一の阻害要因だとして、一方的に蝦夷に侵攻します。その抵抗勢力であり、中央政権の圧力に決して屈しなかった誇り高い一族の長こそ、阿弖流為です。

延暦7年12月、朝廷の第一次遠征隊征東大将軍紀古佐美遠征軍52,800余人が阿弖流為の拠点としている胆沢へ進軍しました。これに対し、阿弖流為率いる蝦夷軍はゲリラ戦
で応戦し、北上する朝廷の精鋭部隊を撃破したのでした。史上に言う「胆沢の合戦」です。
この後、朝廷は二度に渡り胆沢に遠征軍を派遣しますが、阿弖流為 蝦夷軍は13年間に渡って、これを戦い抜きました。
第二次遠征軍は、征夷大将軍大伴弟麻呂。副将軍坂上田村麻呂でした。この時も朝廷の精鋭部隊は著しく士気を低下させ、全軍撤退。蝦夷軍の完全勝利となります。


延暦16年、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任ぜられ、延暦20年、胆沢に襲来。第三次遠征軍、軍士4万人。ここに阿弖流為、田村麻呂の両雄が最後の激突を展開します。翌21年、蝦夷の抵抗拠点である胆沢の地に田村麻呂は胆沢城を造営。これを期に、さしもの阿弖流為 蝦夷軍も遂に力尽きて行きます。

4月15日、胆沢城造営中の田村麻呂のところに、阿弖流為と副大将の母礼(モレ)は戦士500余人を率いて投降してきました。巨大な胆沢城を目の前に、万策尽きたというのが実情でしょう。この頃には、田村麻呂と阿弖流為の間には、お互いの武才を認め合った、一種の男の友情が芽生えていた事も窺われます。
男気のあった田村麻呂は、阿弖流為の勇猛果敢さに敬服し、蝦夷存続を約束し、阿弖流為に都に投降する事を促します。
7月、阿弖流為と母礼を従えて田村麻呂は上京し、裁決は公卿達に委ねられました。田村麻呂は、二人の助命を願い出、蝦夷を馴化するには彼らの協力が必要なことを説きました
。しかし阿弖流為を憎んでいた公卿たちは、「国家に抵抗した反乱の首謀者を胆沢へ赦免すれば、再び反乱は必定」とみて、田村麻呂を信じて投降し上京した二人を、無残にも斬刑に処したのでした。
坂上田村麻呂がこれを大いに嘆いた事が伝えられています。  ・・・つわものどもが夢のあと。

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日本の中心は蝦夷だった!

614 夏も過ぎ、季節は秋に入りますね。 馬鹿な事ばっか書いてないで、たまには落ち着いて、歴史の事でも語ってみようかと思っています。歴史研究家の吟水君が、手塚治虫の「火の鳥」を彷彿とさせる日本の歴史の真実の輪廻を、シリーズで語って行きたいと思っています。 私が、蝦夷安倍一族の末裔で有る事は、既に公言している通りです。また、故・鈴木善幸総理大臣の親戚筋に当る事も書き添えました。今は子息、鈴木俊一さんが、その意思を引き継いでおられます。故・鈴木善幸総理大臣は、蝦夷安倍一族の末裔。そして、現総理大臣 安倍晋三氏も安倍一族末裔です。 ・・・「安倍一族」。太古には、大和朝廷に真っ向から対立し、“朝敵”とされた誇り高い北の豪族です。・・・その朝敵であった一族が、何故今、政界の中心に君臨しているのか、その辺りをゆっくりと紐解いて参ります。また、青森県に現存する、太古に記された「日本中央」の碑。何故、青森県が日本の中央なのか?そのミステリーも解き明かして参ります。安倍一族を通じて、『日本人はどこから来たのか』という事にも、少し触れて行きたいと思います。 私の歴史研究をご参考頂き、少しでも歴史ファンになって頂ければ嬉しいものです。

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