北斎漫画 Ⅳ
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午後。
閉伊川のほとりに遊ぶ。
向うに見えるのは、宮古のランドマーク『ラサの煙突』
地上からの高さは東洋一!煙突だけなら日本第二位。
まさに、宮古のシンボルとなっている。
●データー
宮古のランドマーク。市街の南、小山田(こやまだ)の標高90mの山上にそびえる。煙突の高さ160mで、計250m。実際の高さで日本第2位になる。直径は根本10m、先端5m。1936年(昭和11)休鉱中だったラサ工業の田老鉱山が再開され、宮古工場が1939年(昭和14)6月に操業を開始。煙突の建造は小山田の鹿島建設。1971年(昭和46)に田老鉱山が閉山。1986年(昭和61)煙突を含む銅鉱精錬施設を合同資源産業宮古製錬所に譲渡し、ラサ工業は半導体関係の部品洗浄などに業態を変えた。現在は日本シーアールアイの所有。ラサのサイレンは“ポー”と呼ばれ、午前7時45分・正午・午後4時に鳴った。先端に避雷針があり、純金製だという伝説がある。
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地元の生菓子です。
・・・えっとですね、まず赤飯ですが、宮古の赤飯は甘いんです。
画像の通り、甘納豆を混ぜて蒸すからです。
甘納豆とゴマ塩の配分が絶妙で、品の良い甘さを引き出します。
自分なんて、幼少からこの味に慣れてるもんで、関東に出て赤飯を食った時・・・。
「なんじゃ!こりゃ~~~~~~~!!!」
関東の赤飯のしょっぱさに、目が点になる程に驚いたもんです。
それから餅。
宮古では、お餅は大凡、ゴマを水飴に溶いた“ごま餅”で戴くか、くるみを水飴に溶いた“くるみ餅”で、食べます。
兎に角、ほのかに甘いんです。
まだまだ宮古ならではの菓子は色々ありますよ。
代表的なのが、“ひゅうず”この辺では昔から子供のオヤツでした。
黒砂糖を液状にして小麦粉の皮で包んだ素朴な味です。
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これもまた定番の「殺生石」
ここには何回来たかな? あ、そうそう。青森は下北半島に恐山てあるでしょ、恐山に比べたら規模は小さいけど、まぁ、こんな感じよ。
・・・そりゃ恐山の方がもっとおどろおどろしいけど。
俺はさ、その恐山の山の中で野宿した事あるんだぜ、へへっ。
血の池地獄のほとりに車を停めて、そこで車中泊。
真っ暗な真夜中2時。木々がザワザワっとさざめいて、月明かりに見えるお地蔵さんの横の風車が“カラカラカラッ”と鳴ってな。
・・・まぁ、そんな中で気持ち良く野宿したけどぉ。
自分は霊魂の存在は否定してないし。・・・要するに自然界の万物の現象全てを受け入れる気構えが有るか無いかのハナシでな。
だから俺様は何も怖いと思わない。 でしょ?
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トンネルをぬけると、そこは雪国だった。
今日はぼんにゃんと雪国を目指した。場所は群馬県水上。
・・・因みに、四駆野郎の端くれの俺様。履いてるタイヤはノーマルだ。
こんな豪雪地帯でノーマルタイヤ???と、思うでしょ。
因みに、真冬に郷里の岩手に帰郷する際、過去にチェーンやスノータイヤなど、一度も使用したことが無い。
・・・それは自分の乗る車のテクノロジーを熟知し、あとはテクニックの問題なんだが・・・ (・。・)y-゜゜゜
元々、雪国の人の運転は上手だと思うよ。
タイヤが滑ったらタイミング良く逆ハンを切る。止らない場合は的確なポンピングを駆使する。。。
ひとこと言っておくけど、「自分の運転技術を決して過信しない事!」・・・それが究極のテクニックなんだな。
四駆ってね、元来“道なき道を行く”為に造られた車。
ただ、そのテクノロジーの限界ってもんを知っとかないと・・・そりゃ怖いだろ?
何でもそうだけど、限界を知れば怖いものなんて無い。それにこの俺の愛機“摩利支天Ⅴ世 不知火号”は最強だ!
コイツとなら何処へでも飛んで行ける。
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この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。再び同じ夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。966年にはノルマンディー公リチャード1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。
百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミッシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。
18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用されたが、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有数の観光地となっている。
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ノルマンディを抜け、ブルターニュに入るとほら!かすかに見えて来ました。
モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)とはフランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に築かれた修道院である。カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。
ノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた。島の入口には潮の干満時刻を示した表示があり、満潮時には浜に降りないようにと記されている。最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後といわれており、引き潮により沖合い18kmまで引いた潮が、猛烈な速度で押し寄せる。このためかつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン=ミシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあった。
1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまった。急速な陸地化が島の周囲で進行しており、島の間際まで潮がくることは滅多になくなりつつある。かつての姿を取り戻すべく2009年には地続きの道路が取り壊され、2010年には代替となる新たな橋がかけられることが計画されている。
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27日。
今日は旅のハイライト、『モン・サン・ミッシェル』へ向う。フランスの田舎の風景も観たかった。
オプショナル・ツアーへ26,000円を支払い、一路フランスの最果てまで。
パリからモン・サン・ミッシェルまではおよそ400km。
400kmと言うと、東京から仙台辺りの距離になるかな。
写真の様な風景が、延々4時間以上も続く、それはのどかな風景であった。
ここはノルマンディ地方。
かつてこの地はイギリスの領土であったり、ナチスドイツに占領されたり、昔から戦争の話題に事欠かない。
なんせ、ドーバー海峡なんて泳いで渡れる近さなんだからそれも納得出来る。
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■ノルマンディー上陸作戦■
第二次世界大戦中の1944年6月6日に行われたオーバーロード(大君主)作戦を指す。ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦。最終的に、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸した。史上最大の上陸作戦であり、作戦から60年が過ぎた現在までこれを超える規模の上陸作戦は行われていない。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空爆と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により二ヶ月以上要した。
ノルマンディー上陸作戦は今日まで第二次世界大戦中の最もよく知られる戦いの一つとして数えられる。「D-DAY」は作戦決行日を表し、現在では作戦開始当日の1944年6月6日を意味する用語として使われる。
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31)ソルボンヌ大学
「よぉ!青年、そのお辞儀の作法間違ってるぞ!言っとくけど」。
ソルボンヌ大学は、俺でも入学出来たハズ。いや、マジで。
高校卒業程度の証明書があれば、この大学は世界からの入学は拒否しないハズ。(確か)
ま、フランス語が堪能な方なら、どうですか?今からでも。
でも、入るのは簡単でも、出れるかど~かは保証しませんがね。 ギャハハ!
この前を通り掛った時、たばこを一本口に銜えたら、すかさず青年が寄ってきて「たばこ下さい!」だと。
“Oui ! D'accord."・・・そう笑顔で答えながら、すかさず日本語で「ほら、この乞食学生!一本恵んでやるよ!」
・・・例によって、日本語で言っても相手には通じないんだからさ。 プギャ~~~。
そう言えば、市内を歩いてたら2度程、毛唐から英語で道を尋ねられたんだ。ありゃたぶんイギリス人だと思うんだが。
“Sorry I am a traveler" っつーか!この俺がいくら西洋人の如しな気品を兼ね備えてるてるからって、見るからに日本人だろが、タコ!
まぁ、道を尋ねたくなる様な、親しみやすそうな優しいマスクだからなぁ、俺様は。。。しょ~がねぇか。 (^.^)y-゜゜゜
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26日、PM
可愛いパリジェンヌが「ここよ!」と指差したのがこれ。“カタコンブ”
え~~~???コレが入り口かよ。
こんなとこに有るんじゃ、そりゃわかんねーよな。看板も出てないんだから。
「メルシー!」そう笑顔でお礼をして、パリジェンヌと別れる。
30)カタコンブ
パリの地下に広がっているカタコンブ(カタコンベ)いわゆる地下墓地には、600万人分もの人骨が眠っており、パリの観光名所のひとつにもなっている(入場料7ユーロ)。
パリのカタコンブの歴史は以外に新しい。今から約200年程前、パリ市街の拡大に伴い人口の増加から不足した墓地の対策が早急に求められていた。
墓場が飽和状態となって、市内にはその辺に放置された腐乱した死体から腐敗臭がたちこめて、それはそれは酷いものだったらしい。
当時の市長の号令で共同墓地から骨を発掘し当時の石切り場に骨を移した事がカタコンブの起源となる。
1786年から1814年までの約100年間に町のさまざまな教会から骨約600万体集められた。
地下道には整然とおびただしい数の骨が積まれている。
心臓の弱い方の見学は進められない。
額に剣による創傷の跡のあるもの、陥没したもの、これも人間?と思えるいびつなものまで。
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この辺までがAMの行程かな。
さて、次は本日のメイン 「カタコンブ」
・・・地図を見ながら歩いてんだが、カタコンブが見当たらね~。
しかし・・・へへ。俺様のフランス語も、なかなか通じるもんだねぇ。
何せ、ここ2ケ月間で猛勉強したからな!
「Mademoiselle ! あ~、Excuse-moi,o'u est l'肩昆布?」
↑
よう!そこのオンナ!カタコンブはどこですか?
って、聞いてんだけどな!
・・・5人程のパリジェンヌに声を掛けたら、優しそうな最後のひとりが、現地まで道案内してくれる事になった。
よっしゃ!パリジェンヌのナンパ成功!
日本男児ウタマロ1号、行って来ます! ・・・しかしながら、この辺で右足の激痛もMAX。マジ痛てぇ
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29)リュクサンブール宮殿
サロモン・ド・ブロス設計のリュクサンブール公爵邸を、イタリアからフランス王室に嫁いできたマリー・ド・メディシス(ルイ13世の母)の居城として改築した。ニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュが手掛けた内装は、彼女が幼い頃過ごしたフィレンツェのメディチ家の居城、ピッティ宮殿をモチーフとしている。
マリーがフランス追放された後は、彼女の孫であるモンパンシエ公爵夫人や、プロヴァンス伯爵(後のルイ18世)が居住した。フランス革命末期には権力者たちがここを活躍の場としたほか、その後ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握した歴史的な舞台にもなった。
自由の女神像の原型が設置されている。
現在建物は元老院の議事堂として使用され、建物とその周辺は公園になっている。
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28)パンテオン
ここにあの有名な、キューリー夫人が祀られている。
パリの5区、聖ジュヌヴィエーヴの丘に位置し、幅110メートル、奥行き84メートルのギリシア十字の平面に大ドームとコリント式の円柱を持つ新古典主義建築の作品。18世紀後半に、サント=ジュヌヴィエーヴ教会として建設され、後にフランスの偉人たちを祀る霊廟となった。パンテオンはギリシア語で、日本語では万神殿の意味。
パリの守護聖人、聖ジュヌヴィエーヴに献堂するため、1755年に教会堂の建築設計競技が行われた、「パリの国王の建築物の監督官」であったジャック・ジェルメン・スフロに設計を委託された。スフロは、ジャン・ロドルフ・ペロネと共に、ゴシック教会の構造を徹底的に解析し、石材の強度試験を行って、石造構造の軽快さ、洗練性を求めた。ドームの構造はロンドンのセント・ポール大聖堂や、パリの廃兵院を参考にした。
1755年に建設が始まった。1778年、ドームを支える主ピアに亀裂が見つかり、強度不足を指摘されたことから、スフロの死(1780年)の後、外壁に開けられた開口部は塞がれてしまった。1792年竣工。
しかしフランス革命期の国民議会によってフランスの偉人たちを祀る墓所として利用されることが決定された(1791年)。その後、ナポレオン及びナポレオン3世の時代以降、教会堂として使用された期間もあるが、1885年以降、三度偉人の墓所となり現在に至っている。
ギリシャ建築の純粋性を表現した初期新古典主義建築の傑作とされ、特に『建築試論』を著したマルク・アントワーヌ・ロジェは、この建築物を「完全なる建築のモデルでありフランス建築の真の傑作」と賞賛した。
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27)ノートルダム寺院
ほーら来た!この写真、教科書なんかで一度は見た事あるだろ?
ゴシック建築を代表する建物であり、ローマ・カトリック教会の大聖堂。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。
ファサードを装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年のヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。
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26)コンシェルジュリー
かつての牢獄。もともとフィリップ4世の宮殿であったが、14世紀後半に牢獄として使われ始める。18世紀のフランス革命の際には、多くの王族、貴族などの旧体制派が収容された。フランス革命時はその牢獄に入るとかならず死刑になるというので「死の牢獄」とよばれた。そのなかの有名な一人が王妃マリー・アントワネットである。彼女がコンコルド広場で処刑される前2か月半ほど過ごした独房も現在、再現されている。
牢獄にしちゃ、美しい建物だわね。
ここに収容された王妃マリー・アントワネットには、贅を尽くした食事が与えられたが、子供と離れ離れにされて監禁され、死を待つだけの彼女は、数ヶ月で白髪となり、そのヤツレ様は、見るも無残だったのだとか。合掌。
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24)ルーブル美術館
言わずと知れたここ。フランスの国立博物館である。
メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の1つであるとともに、アシュモリアン美術館(1683年)や、ドレスデン美術館(1744年)、バチカン美術館(1784年)と並んで、ヨーロッパで最も古い美術館の1つに数えられる。世界遺産パリのセーヌ河岸に包括登録されている。創立者はナポレオンの外交官であったヴィヴァン・ドゥノン。世界的に有名な絵画・彫刻を多数所蔵している。
ここはゆっくり観たかったんだけどさぁ。。。
無理。この中をじっくり観て歩いたら、たぶんここだけで3日はかかる。
・・・非常に悔やまれるが、断念。外から建物を眺めるだけで我慢する! ま、またいつか来りゃ良いし。
何故これ程に世界中から美術品を集めてこれたのかと言うと、フランスには税金の代りに美術品で代納すればそれでもOK!
と、いう法制度があるかららしいんだな。
んん、なかなか上手い事を思いついたもんだな。
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26日、朝ー!
いや、流石にぐっすり寝ちまったな。
・・・旅行中、この時計が非常に重宝した。
この時計は海外旅行用に買っておいたもので、カシオの電波ソーラー。
時計の針は日本時間を示し、デジタル表示部分には世界の都市の現在時刻が表示される。
日本とパリは丁度8時間の差があるんだが、頭では分っていてもこんな寝ぼけた朝には、咄嗟に日本がAMなのかPMなのかわけわかんなくなるんだな。
・・・時計を眺めてると「あぁ、今頃ぼんは散歩してもらってんのかなぁ~?」とか、「プレの皆さんは寒い思いしてないかなぁ~」なんて事が頭を過る。
ベッドから起き上がって 「イテッ!」
あ~~~右足首に激痛が!!! 流石に昨日は歩き過ぎだべ。
しかし、ま。一度決めた事は完遂するのが俺様の信条!
残り半分。今日でパリの街を徒歩で制覇するぞ!
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21)オルセー美術館
19世紀美術専門の美術館である
。印象派の画家の作品が数多く収蔵されていることで有名。
オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。設計者は、ヴィクトール・ラルー(1850年-1937年)である。もともとオルセー駅はオルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルであり、地下に10線以上のホームを備えていた。狭くて不便だったことから、1939年に近距離列車専用駅となり、駅施設を大幅に縮小した。その後、この建物はさまざまな用途に用いられ、一時は取り壊しの話もあったが、1970年代からフランス政府によって保存活用策が検討されはじめ、19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わることとなった。こうして1986年、オルセー美術館が開館した。美術館の中央ホールは地下ホームの吹き抜け構造をそのまま活用している。建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残る。現在ではパリの観光名所としてすっかり定着した感がある。なお、旧印象派美術館(ジュ・ド・ポーム)の収蔵品はすべてオルセーに引き継がれている。
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19)エッフェル塔
エッフェル塔の色って、正確に言える方居ます?
なんつーか、緑色がかったこげ茶色なんだけど、この色はエッフェル塔の為に特別に計算され尽くしてつくられた色合いで、何でも「人間が見て一番飽きない色」なんだそーな。
まぁ、そう言えば赤と白の“東京タワー”。。。見慣れたから良いんだけど、赤と白って、考えてみたら???だよね~。
フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。ここで、ギュスターヴ・エッフェルほか2者の案が採用になった。設計者がステファン・ソーヴェストル、モーリス・ケクランとされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルとともにコンペに参加していた。最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。
建設は万博に間に合わせるため、2年2ヶ月という驚異的な速さで行われたが、1人の死者も出さなかった。
建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。鋼製ではなく錬鉄製の塔である。塔の支点の下には水平に保つためのジャッキがある。
あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。
尚、万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていたが、のちに軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っている。
現在ではパリを代表するシンボルとなっている。1991年この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。
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15)サクレ・クール寺院
モンマルトルの丘の上に聳え立つ白亜の寺院。
因みにモンマルトルの“モン”とは、フランス語で「高い」という意味が有る。・・・モンブラン、モン・サンミッシェル・・・etc
だがしかし、モンチッチやモンダミンは違うからな! (・。・)y-゜゜゜言っとくけど。
ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。ギベール・パリ大司教が計画を提唱し、アバディが設計を担当した。1889年にいち早く完成していたエッフェル塔と共にパリ市内を見晴らせる観光名所で、両建造物とも19世紀後半に構想された比較的新しいものであるにも関わらず、今やパリになくてはならない存在になっている。
第三共和政の憲法が発布された1875年に、フランスの新しい政体の門出を祝う意味合いを籠めて、政府による直接的な支援を受けて建設がはじまった。当時は普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンによって命を失ったフランス市民を讃える公共建造物としても考えられていたが、年月が過ぎるにつれてその位置づけが自ずと変容してしまう。実際に着工したのは1877年で、約4000万フランの費用と40年の歳月をかけ、1914年に完成したものの、礼拝のために開放されたのは第一次世界大戦の終わり、1919年のことであった故に、この寺院は皮肉にも普仏戦争以来のドイツに対する復讐の象徴として多くのフランス人から捉えられた。
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さて引き続き25日、PMコース。
午後はモンマルトルに向う。時間が無いから昼食は抜き!
14)ムーラン・ルージュ
ここが有名なムーラン・ルージュ。世界最古のキャバレー。
1889年に誕生した。フランス語で「赤い風車」という意味で、実際に屋根の上に赤い風車がある。 歌やダンス、フレンチ・カンカン、大道芸を組み合わせたショーで有名。また、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子たちをモデルに数々のポスターを描いたことでも有名である。 ここで活躍した著名な芸能人としてはエルビス・プレスリー、フランク・シナトラなど多数いる。
2001年にはここを舞台にして映画『ムーラン・ルージュ』が製作された。 同じタイトルの映画は1928年より上記を含め計6本作られている。
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13)コンコルド広場
パリの中心部、チュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置する。
因みに、フランスの怪鳥と言われた超音速旅客機コンコルドは、この広場の名前に由来する。
1755年、Ange-Jacques Gabrielによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。その後、フランス革命の勃発により、騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められた。革命期には、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑が行われた場所でもある。1795年、現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれ始める(公式名になったのは1830年)。
なお、広場の中心部には、エジプトのルクソール神殿から運んできたオベリスクが置かれている。
ここまでの行程、午前中の3時間で制覇。勿論、徒歩で。
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11)アレクサンドル3世橋
セーヌ川に架かる橋の中で、もっとも豪華な橋。
この橋はフランス共和国の大統領サディ・カルノ
ーとロシア皇帝アレクサンドル3世の間に結ばれた友好の証として、ニコライ2世により1900年のパリ万国博覧会にあわせて建設、パリ市に寄贈された。
橋はアンヴァリッド広場とグラン・パレ、プティ・パレの間を結ぶように建設された。建設はエンジニアのJean Résal、Amédée d'Alby、建築家のCassien-Bernard 、Gaston Cousinに任された。
橋は鋼鉄製、幅40m、長さ107mで3つの関節を持つ単一アーチ橋で、中央に橋脚を建てることなくセーヌ川を一跨ぎしている。両端には石造りのトンネルがある。
アレクサンドル3世橋の礎石は1896年にニコライ2世によって設置され、1900年のパリ万博に際して落成した。橋の右岸、下流側には「1900年4月14日、フランス共和国大統領エミール・ルーベがパリ万博を開会し、アレクサンドル3世橋を除幕した」と記された記念碑がある。
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10)プティ・パレ
シャンゼリゼの東端、セーヌ川との間に位置するプティ・パレ美術館。プティ・パレといえば、特別展の会場として有名で、常設展示のコレクションを持つ美術館であることはあまり知られていなかった。それが改装後、いつでも気軽に立ち寄りたくなるような魅力的な美術館に変身を遂げた。
プティ・パレは、向かいのグラン・パレ(Le Grand Palais)同様、1900年パリ万博の際、美術作品展示会場として建設され、その後1902年にパリ市所蔵の美術品を展示する施設となった。イオニア式列柱に彫刻が施されたファサードには、大きな窓がいくつも並び、(表には見えないものの)鉄を用いて伸び伸びとしたボリューム感が実現されている。
伝統的な建築材である石にガラスと鉄という新しい素材が軽やかさを添え、当時大変な評判をよんだらしい。自然光だけで作品を見せるため、建築家シャルル・ジロー(Charles Girault) は周囲に大きな窓を配し、中庭をつくって内側にも窓を設けることで光あふれる宮殿(パレ)を生み出した。
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9)グラン・パレ
1900年の万国博覧会に向け、シャルル・ジロー(Charles Girault)の監督のもと、アンリ・ドゥグラン(Henri Deglane)、アルベール・ルヴェ(Albert Louvet)、アルベール・トマ(Albert Thomas)の3人の建築家により、1897年から1900年にかけて建設されたグラン・パレ。
当時、共和国としてはまだ若かった“フランスが世界に誇れるフランス芸術の栄光に向けたパレスが誕生した”ともいわれました。その建築様式は、荘重で細密な装飾が示すように、19世紀末の特徴的なスタイルを持っています。
またシンボルでもある、高さ43メートルの鉄筋構造の丸屋根はシャンゼリゼ通りからもひときわ際立ち、当時の鉄骨建築の見事さを示す恰好の例となっています。
万博のメイン会場だったグラン・パレでは、万博終了直後から、芸術家団体主催による展覧会(特にフォービスムを生んだ「サロン・ドートンヌ」と「サロン・デ・ザンデパンダン」)が数多く開催。近代芸術の大きな潮流をここから世界に発信してきました。
また、パリ見本市・モーターショー・航空展示会などのフランスにとって大切な産業・科学にまつわる展示会も、パリ万博が遺した、全国の注目を集めるこの建物で行われました。
1世紀を経て近年になっても、グラン・パレが持つ機能の多様性が認められます。1993年11月に修復のため閉鎖されるまで、多くのイベント(書籍展示会・国際現代アート見本市・骨董ビエンナーレ・「シーム」<美術館・展覧会見本市>・「ミュージコラ」<音楽見本市>など)が開催され続けていました。
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8)シャンゼリゼ通り
パリ市内北西部の第8区を横切る約3kmの大通りである。マロニエ(マロンの木)の並木道となっていて、東はオベリスクのあるコンコルド広場から、西は凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場(旧エトワール広場)まで全長約3km続き、パリの観光スポットとなっている。この通りを延長すると、東のルーブル宮から、ルーブルのピラミッド、カルーゼル凱旋門、テュイルリー庭園、オベリスク、凱旋門、そして西のラ・デファンス地区の「グランダルシュ」へと東西の長い直線を形成している。この直線をパリの歴史軸などと呼ぶ。
シャンゼリゼ通りは東に行くにつれ微妙に下り坂になっており、下って行った先にはマリニー広場の緑地とマリニー劇場、グランパレ、プチパレ等の建物がある。西の方では、両側には有名ブランド店、映画館、キャバレー「リド」、カフェ、レストラン(そのうち最も有名なものは「フーケ (Fouquet's)」)などが立ち並ぶ。
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7)凱旋門
パリの象徴的な建造物の一つで、単に凱旋門と言えばこのエトワール凱旋門を指すことも多く、世界有数の観光名所となっている。
この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=étoile」のように見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場) la place de l'Etoile」と呼ばれていた。そのため、「エトワール広場の凱旋門」の意味の「Arc de triomphe de l'Etoile」との正式名称がある。但し、現在この広場は「シャルル・ド・ゴール広場 la place de Charles de Gaulle」と名称が変更になっている。
なお、「凱旋門 Arc de triomphe (アルク・ド・トリヨーンフ)」の直訳が「戦勝のアーチ」であることでも分かるように、「凱旋門」自体は戦勝記念碑である。そのため、凱旋門はパリだけでもカルーゼル門、サン・ドニ門、サン・マルタン門など多数存在する。
因みに、シャンゼリゼ通りとこのエトワール凱旋門の延長線上のラ・デファンスには「新凱旋門 グランダルシュ」 (la Grande Arche、またはl'Arche de la Défense) があるが、これは戦勝記念碑ではないので、正式名称に "triomphe" が付いていない。すなわち「凱旋門」ではない。しかし、シャンゼリゼ通りの都市軸上にある、カルーゼル凱旋門・エトワール凱旋門に続く第3番目の「門(arc, arche)」であるとの認識があるため、フランスの国の標語である「Liberté, Égalité, Fraternité」(自由、平等、友愛)から、「La Grande Arche de la Fraternité →直訳:友愛の大アーチ」との正式名称を持つ。なお、日本では、「凱旋門」が「エトワール凱旋門」を示す固有名詞と化してしまったため、実際は凱旋門ではないグランダルシュにまで「新凱旋門」と名づけてしまった。なお、北朝鮮の首都平壌にも金日成の帰還を記念して造られた「凱旋門」があるが、これはエトワール凱旋門を意識して造られたといわれ、それより高さが10m高く、世界一とされている。
古代ギリシャ、ローマを模範とするネオクラシシズム(新古典主義)建築の代表作である。
エトワール凱旋門は、1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。ルイ・フィリップの復古王政時代、1836年に完成した。ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時であった。古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つ。
エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦で戦死した無名兵士の墓が納められている。
第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してナチス・ドイツ国旗が掲げられ、ヒトラーが戦車で凱旋した。
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4)内務省
フランス国家の総合的な国内治安、犯罪対策、大規模自然災害に対する政策を担当する。内務大臣はフランスにおける内閣の重要ポストのひとつである。
フランス内務省には、法秩序維持のためにフランス国家警察、フランス国家憲兵隊(平時は、機動憲兵隊を内相が)をそれぞれ管轄下に置く
そのほか、内務省の管轄事項としては、民間防衛と安全保障の管理(消防はこの隷下にある)、旅券、身分証明書などの各種証明書発行、ネットワーク管理、中央および地方政府の関係に関すること、全国ならびに地方レベルにおける物流および選挙管理(ただし選挙結果に関しては、憲法評議会および行政裁判所がこれを管轄下に置く)など広範囲に渡っている。
地方圏およびその下位にある地方自治体は内相の監督下にある。
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2)マドレーヌ寺院
聖女マグダラのマリアを祭るカトリック教会。
ブルボン王朝末期に建設が開始され、フランス革命により中断。後に建設が再開されるとナポレオン1世の命令でフランス軍戦没将兵顕彰に造営目的が変更され、1842年に完成。このときにはナポレオンが失脚したあとなので、ルイ18世によってカトリック教会に用途が変更された。このためその外観は、キリスト教の教会としてはかなり異例であるといえる。
外観はコリント式の高さ30mの柱が52本並べるなど古代ギリシア・古代ローマの神殿を模したネオ・クラシック様式である。 正面はルメール(Henri Lemaire)作の「最後の審判」の彫刻に飾られ、銅の扉にはトリケッティ(Henri de Triqueti)による「十戒」をテーマにしたレリーフが施されている。
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