2006年8月10日 (木)

吟水時事放談 「ほらな。」

本日の朝日新聞に、以下の記事が掲載されました。私が先に危惧していた通りの内容で御座います。

2006年08月10日19時11分

 宮内庁の羽毛田信吾長官は10日の定例記者会見で、昭和天皇が靖国神社によるA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したとされる富田朝彦・元宮内庁長官のメモについて、「長官という職にあるものとして言えば、こうした事柄を公表するには余程慎重でなければならない」との見解を述べた。そのうえで、「富田元長官も公表をお考えにならなかったと思う」「(公表されることになれば)陛下自身が長官にものを言いにくくなる」との考えを示した。

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2006年8月 5日 (土)

吟水時事放談 「富田メモの罪悪」

皆さんは気が付かれているでしょうか?
陛下の発言を書き留めたという「富田メモ」。それが真実かどうかという議論の前に、日経新聞はこれで長期的に皇室を衰微させる口火を切ったと十分自覚していたのだろうか?

あれは実に恐ろしい暴露ですよ。しかし日経を始めとして、ほとんどのメディアも国民の大多数も、その恐ろしさにまだ気がついていないように思われる。

この天皇発言とされるメモが本物であれ偽物であれ、「私」という一人称の発言が記録されていること自体、皇室にとって致命的な打撃になるということである。
また、このメモの公表によって、皇室は「側近」を持つことが不可能になってしまった。これがこのメモ問題の核心である。

もはや「側近といえども心を許してモノを言うことができない」と考えない皇族はいないだろう。しかも富田メモは宮内庁長官という最高位の側近が、天皇の私的発言を「私」という主語で書き留めている。間接話法ですら、ない。こんな「側近」が、かつて存在しただろうか?
皇族のすべてが今後、唯一の支えである側近を失い、なかでも未成年皇族は学友も恩師も信じられないまま成人するという時代に、突然、なってしまった。
幼稚園から大学まで、誰が皇族の発言を日常的に書き留めているか分からない。もっと恐ろしい隠し録音という方法もある。
そうしたことをしないという暗黙の前提が、今回の日経スクープによって完全に突き崩されてしまったのである。

実は、この前兆ともいうべき事態が、今年の2月に起きていた。同月7日午後、NHKの国会中継の画面に突然、「秋篠宮妃の紀子さまがご懐妊」という臨時ニュースが流れた。日本中が久々の朗報に揺れたが、なんと夫君の秋篠宮殿下に報告される前だったという事実がやがて明らかにされた。
つまり、ごく限られた宮内庁医療チームの中に、NHKと結託して携帯電話でリークする者がいたということである。守秘義務をたたき込まれているはずの医療関係者でさえこういうありさまであり、それを誰もどうすることもできないという現状が露呈された。

時系列では富田メモのほうが何年も前なので、ご懐妊リーク問題はむしろ、現在の皇室を支えるシステムが確実に腐ってきていることを、証明していると見るべきだろう。

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2006年7月30日 (日)

吟水時事放談 「陛下のメモ」

あのメモが偽りだとしたら・・・。

公表した日経新聞社は、確かにとんでもない事になりますね。
あれを一面に公開するだけのウラは、日経ぐらいの大新聞なら、その根拠に確信があるんだと思いますよ。下世話なスポーツ紙とはちゃうんだから。

・・・臭いのはね、“なぜにこの時期に?”ってとこでしょ。
そこを考えてみないと。

「何故に日経が書くのか」なんですがね、自分は結構単純に考えています。
つまり・・・支那に進出する大企業にとって、小泉さんの存在は、煙たかった。さて、次は安倍さんか。。。 て、いう時期でしょ。
大企業の圧力。つまり、経団連か同友会か分らんけれども、日経新聞に圧力かけるなんざ、屁でもないわけで。

・・・案の定、安倍さんは立候補の条件から靖国の臭いを消した。世論は参拝反対に傾く。

そう考えるとですよ、陛下のお言葉は、余計、真実でなければ困る事になりますね。

まぁ、俺が考える事は大体当る。・・・そんなとこだろ。

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2006年5月13日 (土)

宮古島市誕生秘話 Vol.10  ~ エピローグ ~

桜が満開だった。
その日はひとつ手前の駅で降り、桜並木のアーケードをくぐりながら帰宅した。
部屋着に着替え、書斎の椅子にだらしなく身を投げ出し、缶ビールを片手に何時もの様にパソコンを開く。

・・・メールチェックに目を通すと、その中の一通に目がとまった。メールの件名は「ありがとう」
メールを読んだ私のくちびるが、無意識に軽く右頬につりあがる。・・・私の、嬉しいときに表れるクセだ。

「・・・ふっ。。。なぁ~にが!」私の顔は、その時ニャッと笑っていたのだろう。つまみのシャウエッセンを口に放り込み、ビールを喉に流し込む。  ・・・旨かった。



件名:「ありがとう」
      貴殿のお陰で決起出来た。
      貴方が居なければ、こうはならなかった。
      暇が出来たら一度、島を観に来てくれ。

             by 沖縄宮古青年会議所 通称 “O”



                  ----- 完 -----

                  (ノンフィクション) 

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2006年5月12日 (金)

宮古島市誕生秘話 Vol.9

宮古島新市の名称は、明日のこのアンケート結果によって決定される事になっていた。選択は二者択一。「宮古市」か「宮古島市」か。

・・・信念によって、ここまで闘って来た。やるべき事は手を尽くした。明日・・・宮古島の民意が、それでも『宮古市』を選ぶならそれで、良いじゃないか。それが宮古島島民の民意なら。

3月7日。
宮古島合併協議会が新市名称に関するアンケート集計結果を発表。
           「宮古市」が約40%、「宮古島市」が約59%

3月8日。
第10回宮古5市町村合併推進協議会開催
            新市名称『宮古島市』を正式決定


3月15日、平良市、城辺町、上野村、下地町、伊良部町の合併協定調印式
3月31日、5市町村長が沖縄県知事へ合併申請書を提出
9月16日、伊良部町閉庁式
9月21日、城辺町閉庁式、上野村閉庁式、下地町閉庁式
9月25日、平良市閉庁式

10月1日、『宮古島市』誕生

一方、岩手県宮古市は、6月6日、田老町、及び新里村と合併し、新生『宮古市』を発足。

●岩手県宮古市  総人口61,090人
●沖縄県宮古島市 総人口55,532人

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2006年5月11日 (木)

宮古島市誕生秘話 Vol.8

ここから先は、私が予想もしなかった展開が巻き起こった。

島の若い衆が、一斉に蜂起行動に出たのである。・・・それはまるで、熱く論じて来た私たちに賛同し、答えてくれるかの如しの絶妙なタイミングであった。

2月21日。
宮古島の、宮古青年会議所・沖縄宮古商工会議所青年部が、独断で決起行動を起こす。
島内のメディアを駆使し、島民のアンケートを採り出したのである。
そして、新市名称に関するアンケート結果4,817人分を発表し、その結果を、宮古島合併推進協議会に対して叩き付けたのだった。
・・・「新市名称公式アンケートを望む79%、望まない13%」

島の若い衆が中心となり、事実上、平良市長をボイコットしてしまったのである。

アンケート総数、たかが4,800人分。・・・されど、それは非常に強力な、島民の意思表示を島内外に知らしめる事となった。それこそまるで、現代に蘇る“一向一揆”が巻き起こったかの如し、強力な一撃であった。この出来事は、当時の琉球新報にも大々的に報じられている。

2月23日。
第9回宮古5市町村合併推進協議会開催
            ・・・「新市名称に関するアンケートの実施を決定」 !!!!!!!

アンケート実施日は、3月7日と決まった。
だがしがし、J氏からもたらされた情報により、その開票方法にひとつの疑念が持ち上がったのだった。
宮古島合併推進協議会によると、そのアンケートの開票は、「何故か密室で行われるらしい。」というものだった。またしても、その音頭をとっているのは平良市長である。
「開票に不正が働く懸念が有る!」
“最後まで諦めずに闘おう!”そう誓い合った我々は、島側の一挙一動に、非常に敏感且、繊細に見守っていたのである。
「よっしゃ、もう一発手を打つかい!」我々は手分けして、再度あらゆる媒体を駆使し、“開票に不正が行われない様”執拗なアピール行動を展開していった。

・・・こうして宮古島合併推進協議会を追い込んでいった結果、アンケートの集計方法は、「公開方式」に改められた。

3月6日。私とJ氏・S氏・Y氏、そしてO氏。互いの顔も知らないネット上で結ばれた戦友達だった。・・・明日行われるアンケート結果について、夫々の予想を、深夜まで語り合ったのを記憶している。
                     ・・・つづく

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2006年5月 5日 (金)

宮古島市誕生秘話 Vol.7

勿論、私がそれに激怒した事は言うまでもない。

すぐさま岩手県宮古市長に事の真意を追求する。即日、宮古市長から返信があった。「宮古市議の発言は、私の関知しないところであり、甚だ困惑し、遺憾である。」との内容であった。
それを受け私は、岩手県宮古市議会議長宛、激憤の抗議文を送り付けたのだった。・・・それは、脅迫すれすれの、いや、告発されても構わないと思った内容だった。

「折角民意が纏ろうという時に、民意の志に水を差し、元の木阿弥にしようとはどういう了見か!民意を蔑ろにする議員足るや、もはや存在の価値に非ず!即刻総辞職を勧告する。これより抗議行動に移り、粉砕を実行する。次回の諸君らの再選は無きものと思え!」

要約すると、そんな感じだったと記憶している。
恐らくこれに宮古市長も動いた。そして、・・・『岩手県宮古市議会沈黙』。
これから数日間、岩手日報と琉球新報には、岩手県宮古市長の「私が関知した成行きでは無い」とする談話が報じられ、情報は紆余曲折していった。

だがしかし、時既に宮古島の市町村合併推進協議会では、新市名称を『宮古市』と確認し、住民アンケートは実施しないとの決定が下されてしまった後の事であった。

・・・もはや成す術無しか。。。

その時、宮古島でも少しずつ成行きに変調が見られた。
この出来事を期に、日頃、島の長老の独断に鬱憤を募らせていた島の若い衆にも、俄かに不満を訴える意見が台頭しつつあったのだった。

総務省が締め切る合併の届出にも、もう日程の猶予も残り少ない。
「あと一押し!」J氏・S氏・Y氏も動いた。・・・最後の攻防であった。互いに、最後の最後まで諦めない事を誓った。それから各々がありとあらゆる手段を駆使していった。

・・・2月11日。
宮古島にて、「新市の名称を考えるシンポジウム」開催。主催の同実行委員会が住民意思を反映させる取り組みを行うよう、宮古島合併推進協議会に要請(15日)

遂に、宮古島の民意が動く!。最後の土壇場に来て、宮古島の民意は、まるで塞き止められたダムが決壊するかの如く、怒涛の展開を見せたのであった。
                      ・・・つづく。

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2006年4月29日 (土)

宮古島市誕生秘話 Vol.6

双方の言い分と状況から判断すると、つまりこういう事らしい。勿論私の憶測の範疇ではあるが、どうやら宮古島表敬訪問の歓迎の“酒の席”で、こんな光景があった。と思われる。

・・・宴も酣。酌を片手に宮古市長に近付いた平良市長が切り出す。
平良市長:「いゃぁ、宮古市長さん!我々もこの度、島の合併に当たっては、“宮古市”を名乗ろうと思っとりますが、どんなもんでしょう。これを期に、お互い宮古つながりで宜しくやって参りましょう!」
宮古市長:「いやぁ、それは目出度い。そうですか、そりゃ結構な事ですなぁ!では、今後とも仲良くやって行きましょう!」

・・・恐らくそんなこったろう。
東北人らしくお人好しでお調子者の宮古市長なら、充分有り得る言動だし、民意を軽んじるらしい平良市側としても、そういうもんなんだろう。
宮古市長は単なるリップサービスとして答えたつもりでも、平良市長にしては真に迫る仕掛けだった。
いずれにしてもこんな非公式の場で、こんな形で未来永劫に続く「呼称」が決められるとしたら、我々市民は納得出来るものであろうか。とんでもない事である。

さて、宮古島のタウン誌のアンケートは、日を追って「宮古島市」支持者が増えていき、遂には支持率70%を突破していた。
当初は全く無関心だった島のご老人からも、「岩手県の方に申し訳ない。」「岩手県の方に失礼があってはならない。」という意見が、琉球新報に寄せられていった。
遂に、あれほど強行だった平良市長も、「民意を蔑ろには出来ない。投票による決定も検討したい。」とする談話を、新聞に語りはじめたのだった。
「勝った!」私もその時は、そう確信していた。そうして時は平成17年の新年を迎えた。

・・・その最中だった。

岩手県宮古市議会の長老議員が音頭を取り、次の様な信じられない発言を独断で岩手日報に語ったのだった。
「我々は、宮古島の“宮古市”呼称を容認する。同じ呼称はむしろ喜ばしい。これから先、お互いの市民はこれを期に、更に仲良くやっていけるだろう。」

それを喜んだのは平良市長だった。
「有り難い。岩手県宮古市民のご意向に感謝する。」

1月19日、第8回宮古5市町村合併推進協議会開催
新市名称の住民アンケートは実施しないことを決定。『宮古市』を確認。  
宮古島新市の名称は、あっさり『宮古市』に決定されたのだった。 ・・・つづく。

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2006年4月25日 (火)

宮古島市誕生秘話 Vol.5

宮古島協議会の設置した掲示板ではその頃、宮古市民と宮古島民の熾烈な応報論戦が激化し、遂に掲示板は閉鎖にまで追い込まれた。・・・勿論、私が仕掛けたのである。
ここまで盛り上がれば、あとは勝手に世論が巻き上がってくる。案の定、やっとここに来て岩手日報と琉球新報が、遂に乗り出した。

次に、宮古島のタウン誌が乗り出した。主催するHPでアンケートを取り始めたのだった。
◎設問。「宮古島新市の名称、貴方はどれがふさわしいと思いますか?」 1)宮古島市 2)宮古市 3)琉宮市 etc・・・これは私も予想以上の結果だったが、「宮古島市」が回答の50%を超えた。次いで「琉宮市」約30%。「宮古市」は、わずか約20%、その他。と、続いた。

・・・つまり、こういう事だ。
何故私が、宮古島各自治体のHPで「私は岩手県の宮古市民だが、・・・」と名乗りつつ、あえて毒舌を吐いたか。・・・実は当初からこれが狙いであった。“宮古市”という呼称に対して、島民の嫌悪感を導き出したかったから。と、いう事である。まぁ言ってみれば簡単な仕掛けだ。・・・こういう計算高さは自分でも恐いと思うけど。。。(笑

さてここで、予てから疑念を抱いていた“岩手県宮古市長は、宮古島側の申し出を快諾したのか?”という事について、双方に追求を仕掛ける事にした。
まずはストレートに、平良市長に対し、「宮古市長は、承諾した記憶は一切無い!と言っているが・・・。」とぶつけてみた。
平良市長から回答が届いた。「確かに快諾を頂いた。」それをまた宮古市長にぶつける。「いや、無い!」
2~3度、この応報が続いたが、この件についてまたO氏から情報が寄せられた。
実はこの問題が表面化する以前に、宮古市長は、宮古島を訪れていたという事実が分ったのである。

・・・旧来、宮古島の多良間村と岩手県宮古市は、宮古つながりで“姉妹都市”を結んでいた。(多良間村は、呼称問題の事も有り、4/15日、既に宮古島合併協議から離脱している→多良間村の皆様には、敬意を表する。)

そうした事で、宮古市長がたまたま多良間村を表敬訪問していたらしいのだった。その席に、平良市長も同席していたらしいという事が分った。
                          ・・・つづく。

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2006年4月22日 (土)

宮古島市誕生秘話 Vol.4

O氏はどうやら、宮古島の公僕らしかった。宮古島の情勢の裏側にまでやけに詳しい。また、平良市の行政には、予てから疑問と不満を抱えている様であった。

私にはここに至るまで、最大の疑問があった。「何故、そこまで“宮古市”に拘るのか。」宮古島なのだから、単純に“宮古島市”で良いではないか?
その疑問にもO氏は明快に教えてくれた。まず、宮古島の地図を見て頂きたい。
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=24.49.15.072&el=125.12.11.793&la=1&sc=7&CE.x=324&CE.y=270
ご覧頂ける様に、単に宮古島と言っても、それは複数の島々から構成される。宮古島本島に伊良部島、下地島、池間島。・・・つまり、こういう事だ。
市町村合併に含まれる伊良部町の住民は、「我々の住んでいる土地は宮古島ではない。伊良部島だ!」と言って、“宮古島市”と、ひと括りに呼ばれる事に猛反発しているのだという事であった。
そこで宮古島本島の平良市としては、伊良部町が合併から離脱すると、そこに繋がる“利権”を失うという事態に、非常に危機感を抱えるという事情があった様だ。

・・・やはりな、利権か。ふっ だがしかし、地名に拘るのは、岩手県宮古市に関る我々も同様だ。それは譲れない!

9月28日。第1回平良市・城辺町・伊良部町合併推進協議会が開催された。その議会の中で平良市長は、顔を紅潮させながら、私がHPに投稿した毒舌論文を読み上げ、激情して言い放ったらしい。「こんな失礼な主張をしてくる岩手県宮古市民の言う事など聞く必要は無い!」
だがそこにひとり、平良市長の考えに反論する議員が現われた。
「私は何も、岩手県の方に迷惑がかかるなら、“宮古市”に拘る必要も無いと思う。私が予てから提唱している“琉宮市”が良いのではないか。」

O氏が不満を抱いている背景には、平良市の行政の有り方があった。島の決定事項は、数名の長老議員によって殆ど決められてしまい、そこに民意は無いのだという。
確かに今回も、「新市の名称に関する小委員会」のメンバーも5~6人程度の構成であり、その中で勝手に“新市の名称”という重大事項が取り纏められていたのである。そこには“民意”などと呼べる様な状況など無かったのである。

「よし、この辺から切り崩していこうか!」そう私は、同士に呼び掛けた。

                       ・・・つづく

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2006年4月21日 (金)

宮古島市誕生秘話 Vol.3

岩手県宮古市長の回答を要約すると、概ね次の通りだった。
「事態は承知しており、非常に困惑している。宮古島側に対し、そうした了承を述べた事実は全く無い。」

だが、その回答の“困惑している”という言い回しには、何かしら引っかかる印象は拭えなかった。政治屋が物事をはぐらかしに掛かる常套手段は、概ねパターンが決まっている。そもそも、物事に対して一応の疑念を抱いて掛かるのが私のクセであった。

こうした市長とのやり取りが後日、私が両自治体と両市民のHUB的存在となって行くきっかけとなった。

その頃、宮古島の「新市に関する小委員会」の態度は更に強硬なものとなっていた。“宮古市”という呼称に、不思議なくらい固執していったのである。協議会の決定が下されるまで、時間的余裕も無くなりつつあった。

「・・・ラチがあかんな。世論を巻き起こすしかないか。」
私は次の手段に着手した。
まず、岩手県宮古市の某タウン誌が運営するサイトに、こうした一連の流れを投稿。次に、宮古島の合併予定の各自治体が運営するHPに、あえて毒舌投稿を掲示。次に、右翼団体のサイトにも意見を求めた。更に各省庁、関係議員、岩手県県議会へジョブを打ち込む事を敢行。

池の水面に一石を投じる。最初はほんの小さい波紋だった。・・・これが後日、大きなうねりとなり、マスコミをも巻き込む大きな世論に形成されて行った。
当初、両地域のほとんどの住民が成り行きも知らず、ほぼ無関心。それはもうのんびりしたものだった。事の重大さに気が付き始め、騒動となっていったのは、それから暫く経っての事であった。

さて、宮古市のタウン誌が主催するサイト。そこではこの議題が徐々に成長し、賛否両論の激論と化して行った。
この中で私は、J氏・S氏・Y氏と知り合う。それからその三氏と共闘戦線を展開して行った。
ここで各氏の役割が自然に発揮されて行く事になる。
私が過激派なら、J氏は理論派だった。S氏は現実派であり、Y氏は宮古島側の立場に立った論調を展開した。
後日、宮古島からも、我々に同調するO氏が現われ、彼を通じ宮古島の詳しい情報が我々にもたらされた。

次第に宮古島議会は、我々の主張を無視出来なくなる程、追い詰められていく。
“巨象を倒す蟻”やがてこれが現実のものとなっていった。

                       ・・・つづく。

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2006年4月20日 (木)

宮古島市誕生秘話 Vol.2

担当官:「法的には何の問題も有りません。」

 私 :「だからな、そんな事を言ってっから、“お役人仕事”だと揶揄されるわけだよ。いいか、見識のあった先人は、そういう危機を穏便に回避する知恵を持っていたわけだよ。法が無ければ何でも許されるとでも思ってんのか?」

担当官:「そう言われますが、現実に広島県の府中市と、東京の府中市が存在しているわけです。」

 私 :「君さ、総務省のお役人のくせに、何も知らないんだな。そ・れ・は、市制施行が同時期であった為に、特例中の特例として認められたのだというだけの事だよ。じゃ、俺が教えてやるよ。福島県の郡山市に対して奈良県には大和郡山市、山形県村山市に対して東京の東村山市や武蔵村山市というように、同一の市名を名乗る事を、先人は知恵を絞って回避して来たんだよ!法が無くてもな!それは・・・混乱を避ける為だよ。」

担当官:「・・・・・。」「私どもも、その件に関しては、宮古島側に、出来る限り同称は避ける様に忠告はして参りました。でもですよ、宮古島側の説明によると、宮古島のその申し出を快諾したのは誰あろう、岩手県の宮古市長だというハナシですよ。」

 私 :「なに?!」

担当官:「ですから我々としましても、両自治体の意向がそうであるならば、双方の考えを尊重しようと言うわけです。」

 私 :「・・・・・。」「分った。それが本当なら初耳だ。しかしながら、現宮古市民は、誰一人そういう事実を知らされていない。つまり、・・・民意ではない! 分った。宮古市長に事実を確認する。・・・それと、総務省の貴方々が主導出来ないと言うなら、もう用は無い。失敬する。」

・・・本当に初耳だった。
それが事実であるならば、「何か有る。」そう、思った。
岩手県宮古市長は人物ではあるが、お調子者のクセが有る。また、宮古市出身の人間でも無い事から、古くからの宮古住民の民意と異なる見解に口を滑らせ、過去に数度と市民の顰蹙を買った経緯があった事を、私も承知していた。

・・・即日私は、岩手県宮古市長宛、質問状をメールで送った。
翌日、宮古市長から直々に返信が届いたのであった。

                            ・・・つづく。

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2006年4月19日 (水)

宮古島市誕生秘話 Vol.1

2005年3月8日。
沖縄県宮古島の平良市、城辺町、上野村、下地町、伊良部町が合併し、「宮古島市」が発足した。
実は、吟水こと私個人の存在が無ければ、宮古島市ではなく「宮古市」という名称で確定発足していたのである。「宮古島市」の名称決定を下させたのは、誰あろう私だったと言っても過言では無い。

何故、「宮古市」が「宮古島市」に改名発足となったのか、一年を経過した今、その真実をここに公開する。
宮古島市発足に際し、成り行きで深く関ってしまった自分の行動を通じ、数回に分けて当時の事の進展をここに残す事とした。

参考資料 http://www.city.miyakojima.lg.jp/site/view/cateview.jsp?cateid=16

そもそも、事の成り行きを知ったのは、2004年9月の頃だったと思う。沖縄県宮古島の市町村が合併し、呼称を「宮古市」とするらしい。そんな噂を耳にしたのだった。

さて、私の郷里は「岩手県宮古市」である。
沖縄のそんな小さい島の出来事に「冗談じゃない!」そう私は憤ったのだった。全てはここが発端だった。
私の大切な郷里である“宮古市”を、他の自治体が名乗ろうという事に、単純に腹が立った。特に、郷里に後ろ髪引かれながら関東に進出して来た私にとって、誇りに思う“宮古市”という地名は唯一ひとつでしか有り得ない。
また、岩手県の「宮古」という地名は、それは古来から伝えられた由緒有る地名であり、今更他の自治体がそれを名乗るという事に、どうしても納得出来ない感覚を抱いた。

岩手県の“宮古”は、時の朝廷から「都」を名乗る事を許されたものの、余りにも恐れ多い事から「宮古」と当て嵌めたものでした。
資料 http://www.city.miyako.iwate.jp/sirusiru/keyword29.html

同じ呼称を許せなかったのは、何も感情的な部分だけの問題でもない。郵便、運輸、観光、強いては軍事問題にも微妙に影響を及ぼす事は明白であった。
事実、宮古市と宮古島は、過去から郵便物の誤配を多く招いていたのである。これが「宮古市」という同称という事にでもなれば、多大な混乱が予測出来た。その距離たるや、南端と北端。笑い事では済まない。

早速、この一件を総務省の担当官に問い質しに出掛けた。
「法的には何の問題も有りません。」担当官は事も無げに言い放った。・・・法的?バカ言ってんじゃねーぞ!

ここから私の闘争が始まったのであった。  ・・・つづく。

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